詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

指田一「接見」

2006-11-10 23:55:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 指田一「接見」(「詩文学」156、2006年11月01日発行)。
 万引きした老婆に警備員が「嘘はダメだよ」と諭しているのをテレビで見ている。それを見ながら指田が考える。テレビの中のできごとを見ながら指田が考えはじめる。その行き来がとてもおもしろい。2連目。

話した事が全てです 泣き声になってきた 信じて貰えないんですね ビデオに撮っておくんだった(映像への盲信) どう説明すればいいの(言葉の不備への躓き) 私と相手のどっちの言う事を信じるんですか(これは言っても始まらない) そんなこんなで身体は泣き声(この時の身体は言葉から遠く離れていた)(感情に支配されていた)(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 ふっと動く指田のことば。深く考えたことばというより、テレビを見ながらふっと思いついたことを、思いついたままことばにしているのだと思うが、そのふっと思いついた動きが、明確な批判をめざしていない分だけ自由に動きまわり、その自由な感じができごとを立体化している。見えているものに「立体的な構造」をしのびこませる。そして、そのときの「立体的構造」をつくっているもののなかに指田の「思想」が見えてくる。

そんなこんなで身体は泣き声(この時の身体は言葉から遠く離れていた)

 ここに書かれた「身体」「声」「言葉」の関係がおもしろい。指田は、ことばと身体は結びついて存在することもあるけれど、結びつかずに存在することもあると見ている。そのとき、では身体は何と結びついているのか。

(感情に支配されていた)

 「感情」である。
 これは論理としてもおもしろい(納得がゆく)が、それよりも、そうした考えを積み重ねていく時の指田のことばの動きそのものが、より刺激的である。
 (感情に支配されていた)は(この時の身体は言葉から遠く離れていた)と同じ括弧のなかではなく、別の括弧をつかって独立させて、指田はこのことばを書いている。一種の、飛躍、断絶をわざと浮かび上がらせている。そして、その飛躍、断絶とは逆にといえばいいのだろうか、このとき、「身体は」という主語は省略されている。省略されることで、「身体は」と書き表わした時よりも深く結びついている。まるで飛躍、断絶がないかのように、強い強い結びつきが文脈そのもののなかに生まれている。
 省略してしまうのは、その主語が指田にとって自明すぎるからである。切っても切れない意識の流れ、文脈が指田にとって明白だからである。人は自分にとって自明なこと、自明すぎることは省略してしまう。この自明すぎて省略してしまうものにこそ、「思想」はある。
 この作品のなかにつかわれていることばを借りていえば「嘘」とは反対のものがある。「思想」とは「嘘」の対極にあるものである。いつでも捨てられるものが「嘘」であり、決して捨てることができないものが「思想」である。
 「嘘」は意識してつくものである。論理を意識してつくりあげていくのもが「嘘」である。本当のことは、特に本人にとって明確すぎる真実は、たいてい省略される。わかっているからことばにしなくていいというよりも、そういうわかりきったことのためにことばをつかうくらいなら、もっと他のことがいえるはずだと思ってしまうのかもしれない。
 (感情に支配されていた)は(この時の身体は言葉から遠く離れており、感情に支配されていた)と書いてしまうと、しかし、またまったく違ったものになってしまう。ことばのスピードが、あるいは粘着力が違ったものになってしまう。どうしても

(この時の身体は言葉から遠く離れていた)(感情に支配されていた)

 と別々の括弧の中に入れて、なおかつ2度目の括弧のなかでは「身体は」という主語は省略されなければならない。省略しなければならないところに指田の「思想」がある。
 省略することで、「身体は」という意識が無意識のなかで強くなると同時に、一種の飛躍が可能になる。飛躍する、いわばスピードに乗って、いままで考えていたことと違った次元へと突入する。そういうことが起きる。

(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 この括弧内の「主語」は何か。「身体は」では意味がねじれてしまう。「身体」に関係しているけれど「身体は」とは言えない何かが省略されている。
 「生じた」はどこに生じたのか、という具合に考えると指田の考えていることが少し見えてくる気がする。たぶん「身体に」生じた、という意味であろう。「身体は」という主語は「身体に」という補語にかわっている。この変化のために、(感情に支配されていた)では「身体は」という主語は省略されなければならなかったとも言える。
 「身体は」が「身体に」という具合に、「身体」が主語になったり補語になったりするのは、身体を超越する「主語」がどこかにあるからだ。「言葉」「感情」「身体」を超越する「主語」、あるいはそれらを統合する「主語」。--それは、「人間」ということかもしれない。全ては「人間の身体」「人間の感情」「人間の言葉」である。
 「人間は」というのが隠された主語である。「人間は」という意識が常に指田のなかにある。切っても切れない思いとしてある。そこから指田のことばは自然に動いてゆく。

(言葉から離れても感情 特に攻撃と防御の感情は生じた)

 人間の感情は、特に攻撃、防御の本能のようなものは、ことばがない場所でも生まれてくる。ことばの論理(意味の正当性)など無視して、唐突に人間のなかで姿を明確にする。肉体をつかって、ただむき出しの乱暴さで立ち上がってくる。それはことばにならないゆえに、「嘘」から遠いものを明確にする。それが「人間」というものである。
 指田が明確にしているのは、その感情が正しいかどうかではなく、感情には「嘘」がないということである。感情は「嘘」から遠いということである。「言葉」や「論理」には「嘘」がありうるが「感情」には「嘘」はありえない。人間は、その「嘘」のないものを肉体で具体化して生きている。

 --という結論が、では指田の言いたかったことなのか。書きたかったことなのか。
 長々と書きながら、私はそうではないと感じている。そういう「意味」のかたまりではなく、そういう意味が立ち上がってくる時の「構造」のようなものを指田は書きたかったのだと思う。
 人間には身体があり、ことばがあり、感情がある。それがどんなふうにして人間を動かしているのか。どんな構造になっているのか。あるとき「主語」は省略され、突然「補語」にかわったりする。そういう自在な(いいかげんな?)構造が人間の内部にあり、その自在さゆえに、人間は他の人間と、ことばや論理を超えて結びつき、納得し合う。
 身体(肉体)はことばを隠し、感情を隠し、同時に伝える。しかし、肉体は隠せない。肉体を通じて人は人を認識する。肉体をとおして、ことばの本当の意味も、感情も認識する。
 一方、人間は、ある人間を見なかったことにする(たとえば、万引きを見なかったことにする)ということができる。わかっているのにわからなかったことにする。そう判断する時、人間は実は、何かとても大事なものに触れている。
 真実に触れている。
 人間が見えないということはありえないけれど、人間を見なかったことにするということは、しょっちゅう起きている。その見なかったことにするときの人間のありよう、そこに指田は「思想」を発見しており、それがどういうものであるかを「身体」「言葉」「感情」の立体的構造のなかで少しずつ描いているのだと思う。「身体は」という主語から「身体に」という補語への変化、その隠された動き(表面には出さない動き)のなかに、指田の「思想」が存在すると思う。


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ジェイソン・ライトマン監督「サンキュー・スモーキング」

2006-11-10 23:51:29 | 映画
監督 ジェイソン・ライトマン 出演 アーロン・エッカート、マリア・ベロ、キャメロン・ブライト

 たばこ業界のスポークスマンが主人公。巧みな話術と情報操作でたばこを擁護し続けるコメディ。--と書いてしまえば、もう書くことは何もないのだが、おもしろいのは「話術」というよりも、この映画のなかにたばこを吸うシーンが出てこないということだ。
 たばこの害を否定するスポークスマンがたばこを吸わない。たばこ業界のトップもたばこを吸わない。たばこを吸わないで、たばこの害をのみ否定する。このたばこを吸う映像の欠如こそがこの映画の本当の痛烈なたばこへの批判である。
 したがって、(というような感想の書き方は堅苦しすぎるかもしれないが……)、この映画のテーマは、本当は「たばこ批判」ではない。とても映画にはなりにくいもの、ことば批判、特にディベート批判がこの映画のテーマだろう。
 途中に主人公が銃業界のスポークスマン、アルコール業界のスポークスマンと愚痴をこぼしあうシーンがある。そのなかで死者の数を自慢(?)しあう。死者の数はたばこがいちばん多い。銃もアルコールも統計的にはたばこにはおよばない。だから、自分がいちばんつらい仕事をしている。いわばいちばん嘘つきの仕事、いちばん攻撃される仕事にたずさわっている、と自慢する。ふたりは一瞬、どう反論していいのかわからなくなる。この、相手を一瞬どう反論していいのかわからなくさせることがディベートのコツなのである。(こういうシーンは何度か繰り返される)。
 死者の数だけでは、たとえば銃の場合、暴力の問題が省略されている。アルコールの場合、判断力の問題が省略されている。ことばはいつでも「省略」によって何かをごまかすことがある。これは何を付加するかということで何を隠蔽するかという問題とも密接につながっている。
 ディベートでいちばん省略されているのは、どういう論理が論理として正しいかという検証である。人(観客、大衆)は「論理」を見ない。見るのは「誰が困惑したか」ということだけである。「困惑」した方が負けである。人は何か正しいか知りたいというよりも、何かに味方して「勝利」を味わいたい、あるいは「敗北」する人間を見物したい。「敗北」する人間を大笑いしたい。
 「敗北」した方も、論理的に敗北したわけではないから、「笑い者になった」ということが問題になるだけである。こういうことは映画のなかでそれなりに描かれてはいるけれど、ちょっと物足りない。
 映画には向かないテーマだけれど、それを映画にしようとしたということだけは、まあ、評価に値するかもしれない。舞台の方がおもしろかったかなあ、と思う。舞台の方が、ことばと肉体の分離(乖離)が直接的に伝わってくると思う。こんなばかげたことを人間が言うということが直接的に伝わってくると思う。



 映画を少し離れて……。
 「非核三原則」をめぐる問題、「タウンミーティング」のやらせの問題を、映画を見ながらちょっと考えた。
 「非核三原則についての議論まで封じるのはいかがなものか(言論の自由に反する)」という意見は、まるで高校生のディベートの安直な主張のようである。国民(観客、大衆)を自民党はばかにしている、見くびっているのかと思うと恐ろしくなる。
 「非核三原則というが、実際に北朝鮮が核を開発し、ミサイル攻撃してきたとき、どうするのか」と言うけれど、それは「非核三原則」の問題ではなく、国防の問題である。国をどうやって守るかということから議論をはじめて、その仮定で具体的に北朝鮮の問題が出てくる、核の問題がでてくるというのと、いきなり非核三原則に対する議論が必要だというのでは論理が違う。「非核三原則」論議が必要だという主張が省略しているものは何なのか。その「省略」のなかにこそ、自民党の「思想」がある。「思想」はしばしば見えない形(隠されたまま)で押し広げられる。
 「非核三原則」は被爆国の絶対に譲れない一線であるだろう。それを前提として、ではどんな国防の在り方が可能なのか、それを追求していくのが国会議員の仕事だろう。前提を放棄するだけではなく、何かを隠したまま、「議論は自由だ」「議論を封じてはいけない」というのは、ごまかしである。それこそ、本来の「非核三原則を維持したまま、何ができるか」という議論を圧殺するものだろう。

 ことばの力がなくなっている。ことばの力が衰えている、と感じてしまう。
 「小学生から英語を」というのも、ことばの力を身につけさせないための政策かなあ、と思ってしまう。
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