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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)

2011-05-23 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)(「現代詩手帖」2011年05月号)

眠る子のほっぺたをこっそりなぞってみた

美しく堅牢な街の瓦礫の下敷きになってたくさんの頬が消えてしまった

こんなことってあるのか比喩が死んでしまった
                                 (50ページ)

 「06」の書き出し。 3月20日の「詩の礫」の書き出しである。
 「比喩が死ぬ」とはどういうことか。「比喩」が現実に追い越されてしまうということだ。「比喩」は「いま/ここ」にないもの(ことば)を借りて「いま/ここ」をより強く描き出す行為のことである。ことばの運動である。
 子どもが瓦礫の下敷きになり死んでいる--ということばは、たとえば小説には出てくる。詩にも書くかもしれない。そのとき「ことば」は現実ではない。「いま/ここ」ではなく、あくまで「物語」のなかの描写にすぎない。あるいは、あることがらを印象づけるために生み出された「比喩」にすぎない。
 そういう、いわば「文学」のなかで動いていたことばが、文学からとびだしてしまった。はみ出してしまった。いや、逆なのか。大震災の現実が「文学」のなかのことばを「破壊」してしまった。「文学」ではなくなってしまった。
 「こんなこってあるのか」という衝撃は、「文学(詩)」を書いている和合だからこそ、より強い。子どもが瓦礫の下で死んで行く。ひとりではなく、大勢が死んで行く。かわいらしい頬、やわらかい頬が奪われていく--ということがことばの運動ではなく「現実」になってしまう。そういうことがあっていいのか。

 ことばは、どこへ動いて行けばいいのか。

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。

しーっ、余震だ。何億もの馬が泣きながら、地の下を駆け抜けていく。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。
                               (50-51ページ)

 「比喩は死んだ」と和合は書いた。しかし、ここに書いている「馬」は「比喩」である。そうすると「比喩」は死んでいないことになる。矛盾している--のか。そうではない。「比喩が死んだ」と和合が書くとき、「それまでつかってきた比喩が死んだ」ということである。「既成の比喩」が無効になった。瓦礫の下で死んで行くこども--そのことばは現実の子どもの姿、そしてそれが多くの子どもであるという事実の前では、何かを語りながらも、ほんとうは語りきれていない。事実さえも語りきれていない--語りきれていないという気持ちを和合の中に残してしまう。
 ことば--いままでつかってきたことば、いままでつかってきた「比喩」は和合の「肉体」には適合しなくなったのである。
 そのことを和合は、次のように書いている。

偏頭痛。朦朧。昨晩から喉が痛む。おしゃべりなぼくは疲労が溜まれば、喉に来る。しかしこの部屋の現在。言葉は次から次から、僕を通り過ぎる。何を追うのか。何よりも、言葉に置き去りにされるのが、ひどく恐ろしい。
                                 (51ページ)

 それまでつかっていたことばが無効になった。和合の「肉体」ではなくなった。だから、それが「偏頭痛」という形で「肉体」に影響している。
 ここに書かれている「肉体」では、「喉が痛む」に、私はとても興味をひかれた。
 和合は部屋にひとりである。「おしゃべり」をしているわけではない。けれど、「喉が痛む」。この感覚は、私にはとてもよくわかる。特に、つぎの「言葉は次から次から、僕を通り過ぎる」を読むと、喉の痛みがよくわかる。通り過ぎることば--それが通り過ぎるというのは、ことばにはならなずに、ことば以前のままで行き過ぎるからである。「言葉に置き去りにされる」のが恐ろしいとは、ことばがことばにならずに、和合を置き去りにしてさらに先へ進んでしまうということだろう。このとき、「喉」は、そのことばにならないことばを発しているのだ。声帯は動いているのだ。
 私は活字を読むとき音読はしない。黙読しかしない。けれど、喉がつかれる。書くときも同じである。書くとき声を出すわけではない。けれどとても喉がつかれる。無意識のうちに喉をつかっている。舌や口蓋や唇や鼻腔もつかっている。
 たぶん和合もそういう人間なのだと思う。
 ことばがすらすらと動くとき、喉は、あまりつかれない。つっかえつっかえ、なんと言っていいかわからないことばをあれこれさがしているとき、ことばにならない「声」だけが「喉」に押し寄せてくる。このために、疲れる。
 「詩の礫」を書いている和合には、この現象は痛烈である。
 「比喩は死んでしまった」。既成のことばの運動は死んでしまった。頼りになることばはない。どのことばにすがって書けば、「いま/ここ」が書けるのか。まったくわからない。わからないけれど、書かなければならないという思いがある。その思いを空回りさせて、ことばが和合を置き去りにする。和合はことばを追い掛けられずに、ことばにならない「声」を、激しい息(呼吸)を喉にぶつける。声帯があれる。その痛みこそ「偏頭痛」の原因かもしれない。
 和合は繰り返している。

馬が追う、言葉が追う、余震が追う。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。馬に取り残される、言葉に取り残される、余震に取り残される。僕は幼くなるしかない。うわあああん。おかあさーん、おかあさーん。
                                 (51ページ)

 馬、言葉、余震--それは追っているのか。来るのか。和合を取り残していくのか。その全部である。ひとつの運動があるのではなく、それは全ての運動である。あらゆる運動である。それを「ひとこと」では書き表せない。起きていることは「大震災」というひとつのことなのに、そのひとつのことのなかにいくつもの運動があり、どのことばをあてはめてみても、それはうまく合致しない。
 比喩は死んだ--既成のことばは死んだ。和合には、どういうことばをつかっていいかわからない。ただ「声」だけが、「息」だけが、肉体の奥からこみあげてきて「喉」を突き破る。「おかあさーん、おかあさーん」。それはことばであるが、なによりも「声」である。幼い子どもが「おかあさーん」と叫ぶのは「おかあさん」を呼んでいるのではない。「私はここにいる」と叫んでいるのだ。

 私は「いる」。和合は、「いる」。その明瞭なことが、しかし、ことばにはならない。「声」にもならない。喉の奥を揺さぶっている。だから喉が痛む。そして、偏頭痛に広がっていく。--この「声」(ことば)と「肉体」の関係に、私は「肉体」で反応してしまう。共感する。路傍で倒れてうずくまっているひとを見たとき、あ、このひとは苦しんでいる。あ、この人は腹が痛いのだ、とわかるように、和合の「喉の痛み」がとてもよくわかる。私の「肉体」の痛みではないのだけれど、私の肉体の痛みとして感じる。
 そして、この痛みから、先の引用に戻ると……。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。

 この「しーっ、余震だ」が、地の下の、不気味な動きに耳を澄まして身構えるだけではなく、自分のなかにある「ことば」を聞こうとしている「しーっ」に感じられる。
 「はっきりと覚悟する。私の中には震災がある」(48ページ)なら、「私の中に余震がある」とも言えるだろう。それは、「いま/ここ」で起きている「事象」に向き合う「ことば」がある。ことばにならない「声」がある、ということでもある。ことばにならない「声」だからこそ、和合は、「しーっ」と自分の「肉体」地震に対しても呼び掛けているのだ。耳をすませ、と言っているのだ。
 和合は、そして「馬」を聞いたのだ。それは「南相馬市」という地名に「馬」があるからかどうか、よくわからないが、それが和合にとっての新しい「比喩」のはじまり、新しいことばのはじまりであることだけは確かである。

 ことば。ことば。ことば。
 和合は、ことばを取り戻すことで、大震災に勝つことを誓っている。

余震。余震。余震。俺はもう終わりかもしれねえが、ここまで馬鹿にされてたまるか。最後の最後に「地震」を目茶苦茶にしてやっぞ。
                                 (51ページ)

 あ、ここに「馬」とは別の動物が出てきた。それはすでに和合の詩のなかで出てきたものであるが……。「鹿」。

これほど「福島」の地名が、脅威に響くとは。鹿の鳴き声。
                                 (42ページ)

 何度か出てきた「鹿」の鳴き声。大震災の街に鹿がいるとは私は思わなかった。それが何の「比喩」なのか、どこから来ているのかわからなかったが、もしかすると「馬鹿にするな」という怒りから来ているのかもしれない。「馬」は愛する「南相馬市」。「鹿」はふるさとをを破壊した地震に対する怒り(馬鹿野郎という叫び)と、肉体の奥でつながっているのかもしれない。
「鹿」は怒りのために悲しくて鳴いているだ。孤立した怒りの、絶対的な悲しみの象徴なのだ。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社



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