詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「群馬の犬はかわいそうだ」

2006-07-12 13:23:51 | 詩集
 大橋政人「群馬の犬はかわいそうだ」(「ガーネット」49)。

夏の犬は
かわいそうだ

夏の
群馬の犬はかわいそうだ

散歩が好きなのに
歩き出すと
すぐハーハー言い出す
草むらに
大きな体を横倒しにして
ハーハー舌をだしている
海のある県なら
海風が入ってきて涼しいだろうに
朝の砂浜を
いっしょに走ることができただろうに

群馬県には群馬県民がいる
男の群馬県民と女の群馬県民がいる
群馬県民のいくつもの踵にぶつかりながら
ほてった群馬県の剣道の側溝の上を
生まれ故郷にいながら上の空
生気のない群馬県民の一人の男に
あちこち引き回されて

夏の犬は
かわいそうだ

夏の
群馬の犬はかわいそうだ

おまけに
夕方になれば夕立だ

恐怖の閃光と爆撃音に向かって
喉のかれるまで
気が狂ったように吠え立ててやれ

 この詩を読んでいると、本当に群馬の犬がかわいそうかどうかは、よくわからない。しかし、群馬の男、大橋政人がかわいそうになる。といっても、その「かわいそう」はたぶん大橋が群馬の犬に対してかわいそうと思う気持ちと変わらないと思う。
 犬と散歩しながら、海があったらなあ、と思っている。「朝の砂浜を/いっしょに走ることができただろうに」の「いっしょに」に大橋の「思い」を語っている。「いっしょに」と書いた瞬間、大橋と犬は、実は入れ代わっている。「いっしょに」というのは一体ということだが、一体というよりは、入れ代わりのニュアンスが強い。
 だからこそ、それに続く「群馬県には群馬県民がいる」からの7行は、人間の思考のスピードというより、まるで犬の思考のようにのろまである。(犬に失礼だろうか?)というか、ここは、真に犬の思考、犬のことばのように聞こえてくる。
 そんなふうに、犬になってしまって、犬をかわいそうと書くということは、本当は大橋自身をかわいそうと思っていることになる。
 だからこそ、最後が、何とも悲しくユーモラスである。つまり、犬の方が幸福に見えてくる。群馬の男である大橋は本当は犬のように大声で吠えてみたい。大橋は犬と入れ代わったまま、大声を出したいのである。でも人間なので、夕立、雷に向かって吠えることができない。
 夏の、海のない群馬を、犬と一緒に歩きながら、夕立を夢見ている男の、ひそかな願い、隠された欲望を見る思いがする。それがあまりにも身近すぎて、それがおかしい。
 ライト・バースの手本のような詩である。

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