goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

2024-11-29 22:07:20 | 映画

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)(KBCシネマ2、2024年11月26日)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 デニズ・ジェリオウル、メルベ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージ

 冒頭、主人公の教師が雪のなかを村へ帰ってくる。このときの雪。これが、絶望的に冷たい。美しくはない。ただ冷たいだけである。雨が混じっていて、やりきれない音が聞こえる。白く輝く雪ではなく、灰色に沈む雪。この「灰色」がこの映画のテーマであると私は直感する。この雪に似た雪は、一度映画で見たことがある。「スウィートヒアアフター」(アトム・エゴヤン監督)。この映画もまた灰色の冷たい雪、凍った雪が私を閉じ込めて放さない。
 「二つの季節しかない村」には、小学校の校庭で雪をぶつけ合う楽しいシーンもあるのに、その楽しさは人間を解放しない。そんなものは「まぼろし」だと言っているようにさえ思える。そこに住む人間を長い間、ただ閉じ込めるだけの冷たい雪。それは人間を屈折させる。動き始めた肉体は、その動きに身を任せ、解放されるという具合にはいかない。奇妙にゆがむ。もっと美しい動きがあるはずなのに、そしてそれをみんな自覚しているというか、直感しているのに歪む。他人がうらやましい、他人がねたましい。
 最初、それは非常に「なまなましい形」であらわれる。主人公の教師が教室で生徒に質問する。優秀な生徒(少女)が二人いて、彼女たちは手を挙げて質問に答える。教師は、彼女たちなら間違えずに答えるとわかっていて、彼女たちを指名する。予想通り、正解が返ってくる。授業がスムーズに進む……はずが、ひとりの男子生徒が先生に語りかける。「先生は、いつも二人を指名する。(依怙贔屓だ)」と批判する。この正直な直感と反発。そのなかで人間は歪む。この男子生徒が実際に行動を起こすわけではないが(だから、ここにテーマが暗示されていると直覚する観客は少ないかもしれないが)、登場人物たちは、まさにこの生徒のことばを支えている直覚を具現化するように動く。その場合、それはたいていは、してはいけないとわかっているのに、してはいけないからとわかっているからこそ、それをしてしまう、という形をとる。「先生は、依怙贔屓をしている」というようなことは、「おとな」になれば面と向かっては言わない。でも、陰口は言う。その「陰口」の世界とでもいえばいいのか。
 それは簡単に言いなおせば、冒頭の「灰色の雪」の、その「灰色」の世界である。「灰色」は単調な色なのだが、その単調さのなかに、なんとも強情なものが隠れていて、それが灰色に濃淡を与える。この濃淡の変化こそが「人間のいのち」であるというのが、たぶんヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の、「主張」である。
 これは「雪の轍」にもみられた、長い長い「対話」に象徴的にあらわれている。対話を通して、二人の話者は「結論」というか、「妥協点」に到達するわけではない。対話の目的は、対話の理想とは逆に、「自己主張を譲らない」という一転に向けて加速する。話せば話すほど、いや、この映画では「話さない」という形でも「自己主張を譲らない」という姿勢が貫かれるのだが、これはもうこうなってしまうと、絶対に「純白」や「黒」という具合には話が進まない。ただ「灰色」の濃淡をどれだけ認識できるかにかかってくる。それは観客もそうであるし、登場人物にそうなのである。
 主人公は男は、結婚相手の女性を紹介される。結婚する気はない。だから、その女を友人の男に紹介する。女と友人は親しくなり始める。そうすると主人公は、それまでその気がなかったのに、その女のことが気になる。絶対に「好き」なわけでもない、愛しているわけでもないのだが、女を奪ってみたくなる。そんなことはしてはいけないとはわかっている。わかっているからこそ、よけい、そうしたくなる。そして、いったん、そういうふうに動き出すと、それを止めることができない。女は女で、主人公が友人を裏切って、主人公が女に接近してきたことをわかっていながら、男と寝てしまう。そんなことをすれば、絶対に友人にわかってしまうとわかっていながら、そうしてしまう。そして、それからまた複雑な関係というか、複雑な「やりとり」がある。灰色が灰色のまま揺れ動く。暗くなり、それでも明るさを求めて動き回る。これは、もう、どうすることもできない。
 ただ、それだけである。こうした「暗さ(灰色のやりきれなさ)」を納得できるかどうか。それは、もしかすると冒頭の雪のシーンを体験したことがあるかどうかと関係するかもしれない。ある風土、ある季節、それを知らない人間には、到底理解できない何かがあるかもしれない。人間の力では変えることのできないものがある。そして、それは自然(季節)の問題だけではなく、自分自身の肉体のなかにも潜んでいる。潜んでいるだけではなく、あらわれてしまう。あらわれることを抑制することができない。それは「欲望」の解放と簡単に言うことはできない。あらわれてしまったものが、逆に「欲望」の抑制であるかもしれないのだ。そうした矛盾を納得できるかどうか。問われるのは、そういうことだろうと感じる。書いているうちに、この灰色のなかに潜む黒の不思議な輝き、そこにもどうすることもできない喜び、愉悦があるということばを挿入したいのだが、それをどこに挿入すればいいのかわからないまま、私のことばは動いてしまう。
 「灰色」というと白が美しく黒が汚いという視点で整理するとわかりやすくなるのだが、そういうわかりやすさとは裏腹に、あの黒にこそどうしようもない美しさ、絶対的な欲望の強さがあるということを納得できるかどうか。そうなのだ。私は、ある意味でこの映画のもうひとりの主役の少女の、絶対に自分の悪を認めようとしない強さのなかに、恋することの美しさ以上の力を感じ、魅了されるのだ。主人公の男の「物語」など平気で破ってしまう絶対的な力、そしてそれが自然であるということの強さ。
 「スウィートヒアアフター」も、映画が進めば進むほど、見てはいけないものを見るしかなくなる人間のやりきれなさを、ただじっくりと描いていたが、雪にはそういうことを強いる力があるのかもしれない。雪には、人間に耐久性をもたらす力があるかもしれない。雪を知らないひとは、この不思議な、いやあ力の動きが好きになれないかもしれないなあ。私は、その力が好きであるとは言えないけれど、妙に納得し、その存在に「親近感」を覚える。雪深い山の中で育ったせいかもしれない。

 と、ここまで書いて。
 ほんとうは書いてはいけないことなのだけれど、この映画の主人公のように、してはいけないと思うからこそ、書いておきたいこともある。この映画の主人公を苦しめる女生徒のような「存在」を私は知っている。それは、この映画のように「事件」にはならなかったが、雪の抑圧というのは、そういう少女を生んでしまうのかもしれないとも思った。そうしたことも、この映画を見ている間中、私の意識を突き動かしていた。その当時、私はまだ少女と同じ少年だったから(同級生だったから)、その少女のなかに動いていた絶対的な情念の力など理解できなかったが、いまならわかるような気がするのである。

 人間は、簡単には「整理」できない。整理できないものを、整理しないで、突きつけてくる。提出する。こういうことができるのは、たいへんな力業だと思う。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 谷川俊太郎の死(3) | トップ | 谷川俊太郎の死(4) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事