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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」

2006-02-05 01:55:41 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号の「英国女性詩人3人集」(熊谷ユリヤ編訳)。フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」に惹かれた。

翼のわななき。壊れた小鳥は
虚無と対峙する。それは窓ガラスに激突する
二つの肩の銃声。翼と、尾と、心臓とが
爆発する圧倒的な力。
強打と流血、削り取られた流血、再びの流血の
激痛、あるいは黒い羽の塊。

そのあと、あなたは小鳥を拾い上げる。
小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように
封印されたまま。皺のある黄色い絹の目蓋、
嘴を染める血のまばゆさを見せ付けるために。
ガラスの質感で広がる静寂に逆らうかのように。
断末魔の翼をのばして、逝かせてやってください。

 昨日触れたコルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」とは違った形で「あなた」が強烈な位置を占めている。
 男、女、あるいは兵士といった第三者ではなく「私」と密接な関係にある人間が「あなた」である。二人称とは親密な関係を指し示す働きを持つ。(スペイン語にはtutearという表現がある。フランス語にも類似の表現がある。tuで話すというのは、親密さの表現である。)そこには肌と肌が触れ合う関係(抽象的意味も含めて)がある。相手に身を任せても大丈夫、気の置けない関係がある。
 この詩でも、「あなた」はそういうものをあらわしている。
 だからこそ「小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように」という表現も生まれてくる。「身」は、肉体であり、命そのものである。
 そして、このときから「あなたの弱さ」とは精神・感情の弱さではなく肉体の弱さになる。肉体に肉体が反応してしまう弱さ、命の輝きと苦悩に共感してしまう弱さになる。

 肉体は不思議である。たとえば誰かが肉体的苦悩を抱えている。その苦悩は私自身のものではないが、肉体はそれをリアルに感じてしまう。どんなにことばをついやした表現よりも、肉体にあらわれる一瞬の表情、姿勢が、私たちの中の肉体の苦悩を引き出し、共感させてしまう。(長谷川龍生に「瞠視慾」など)
 相手が親密な関係にあれば、なおさらである。
 肉体は、他人の肉体の痛み・苦悩を拒絶することができない。他人の痛み・苦悩について「頭脳(精神)」は「そういうものは私と関係がない」と拒絶することができるが、肉体は「そういうものは私とは関係ない」と拒絶することができない。

 広島の苦悩にしろ、グランド・ゼロの苦悩にしろ、私たちは「頭」では「それは私とは無関係である」ということができる。しかし、実際にその場に立ち会うと肉体は「それは私たちとは無関係ではない」と拒絶できない。肉体が反応してしまうのだ。破壊され、破壊されながらなお存在するものの肉体に。
 あらゆる「現場」に私たちが行かなければならないとすれば、それは肉体として共感するためだ。

 (先日、ニューヨークの国連を見学した。そこに広島のねじ曲がった原爆壜があった。それを見たとき、「たったこれだけ?」と私は怒りを感じた。これだけで肉体が反応すると思っているのだろうか。なぜ事実を肉体から遠ざけようとするのか、という怒りである。)

 この作品にあるのは「思想」ではない。肉体である。肉の痛み、血の熱さ、命そのものである。
 どのような歴史(政治的歴史、政治的闘争)のなかにあっても、その瞬間瞬間において私たちは肉体である。肉体を通して他者と接する。
 他者の肉体をどれだけ自分と身近に感じることができるか、他者の肉体により親密に接近するために、ことばはどんなふうに動いていくことができるか。詩は、そうしたことのために、何ができるのか。肉体の復元のために、ことばは何ができるか。
 そういうことを考えた。「あなた」ということばに誘われ、明確なことばにならないまま。
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