詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『紙背の子』(3)

2020-10-12 10:14:37 | 詩集


高貝弘也『紙背の子』(3)(思潮社、2020年09月20日発行)

 高貝弘也『紙背の子』には空白のページがある。「紙背の子」という作品が始まる前は必ず空白の2ページ(見開き)があり、終わりにも空白の2ページがある。長い作品では、見開き2ページの本文があり、空白の見開きを挟んで後半が展開する。
 「空白の見開き」に、高貝は何らかの「意味」を持たせている、ということがわかる。
 でも、私にはそれ以上わからない。
 「眼光紙背に徹す」ということばを私は辛うじて思い出すが、それを手がかりにすれば、「眼光」で読んだもの(読み取ったもの)を高貝は差し出している、ということになるかもしれないが、「眼光」で読み取ったものは読み取った人間にしか見えないだろうから、私はそういうものには触れない。
 その「紙背の子」というタイトルの作品。(ちょうど、本のなかほどの作品)

性のない 穴


雄になりそびれた雌か、
行き場のない縁
性と性の間で

汽水魚がいく
(泣きながら 境を)

 「性のない」は「雄になりそびれた雌か、」と言い直される。この言い直しには「雌になりそびれた雄か、」が隠されている。それだけではなく、高貝が男であるということも隠されている。自己の性の認識が「雄」ということばを最初に発せさせている。
 もちろんこういう読み方は「誤読」以外の何ものでもないのだが、私は「誤読」をする。「意味」を輻輳させる。
 さらに「性のない」は「性と性の間」と言い直されている。「雄」と「雌」の「間」ということである。この「間」はまた何もない「穴」の言い直しでもある。
 「間」とは何もないものである。「間」というものはあるにはあるだろうが、その「間」に存在するということは、なかなか難しい。「性」を「雄」「雌」ということばで言い直し、雄と雌の間に「わたし」というものを置くとき、「雄とわたしの間」「雌とわたしの間」という別の「新しい間」が同時に出現してしまう。存在しなかったものが「わたし」によって生み出されてしまう。最初にあった「間」は消えてしまう。さらに、そのときの「わたし」の存在、「新しい間」というものは中間と均等を作り出しているかどうか、よくわからない。
 この詩では、「中間」はあるようで、ない。「間」のかわりに「縁」が選ばれ、「縁」は「境」と言い直されることで「間」は便宜上のことばであって、そんなものは存在しない。両者は接している。そして、接していることによってどちらのものとも言えない。共有されてしまう何かなのだ。これは具体例として「汽水」と言い直される。海の水と川の水が入り交じる。
 そんなところに「縁」もなければ「境」もないし、「間」もない。それは「ある」と想定する意識としてあらわれながら消えていくものである。
 あらわれながら消え、消えながらあらわれるもの。
 これを「紙背」にあると言い直せば「眼光紙背に徹す」ことによって、見たもの(つかみ取った真実)ということになるかもしれないが。
 このあと、詩は、こう展開する。

ねむりにつくとき
あなたは(わたしは)、さみしいおむすびを結んで

 「ねむりにつく」は「泣きながら」を含んでいるだろう。ことばは、必ずしもその直前直後のことばと結びつくだけではなく、離れたことばと呼び掛け合う。
 「あなたは」と書いて、すぐに「わたしは」と書くのは、「隠れているわたし」が「あなた」そのものだからだろう。「あなた」としかことばにしなかったら、「間」も「縁」も「境」もなくなる。
 「ある」と「ない」を結びつけているのが「あなた」を意識する「わたし」、「あなた」を前面に出し続けながら隠れ続ける「わたし」。
 そうであるなら。
 この詩に表出された「あなた」としての「ことば」の背後に隠れている「わたし」としての「ことば」はなにか。「眼光紙背に徹す」というときの「紙背に徹す」る前のというか、「眼光」に読み抜かれる前の「テキスト」は何か。
 私は、「眠りにつくとき」を「泣きながら」につづける形で読んだ。「泣きながら眠りにつく」ということばの動きを知っているからである。こういう「構文(あるいは慣用句)」のようなものが、世界には存在するのだ。それは「完成されたことば(一篇の作品)」というよりも、複数の作品を貫いて存在してしまう「ことばの肉体」のようなものだ。
 「泣きながら眠りにつく」は「さみしい」へと動いていく。こういう「無意識」になってしまったことばの動きというものこそ「わたし(の肉体)」であり、「ことばの肉体」なのだ。それを動かしているものに誘われながら、同時に誘ってくれているものを励ます。そうやって動く高貝のことば。
 「雄になりそびれた雌か、」は「古典になりそびれたいまの言語(高貝のことば)か、」「いまの言語(高貝のことば)になりそびれた古典か、」と言い直せば、高貝が「間」「縁」「境」と考えているものがなんとなくわかる感じがするかもしれない。高貝のことばは、どこか遠くにある「日本語の文体」そのものに触れながら動いている。

土の湿っためぐり
底とそことが、繋がっている

裏のないうらで、
あなたは(わたしは)


風合いと質感
えもいわれぬ 色と香り
鮮やかさ
(灰色の響き)

さわりで、

 そして、こういうときの「日本語の文体」というのは「意味」だけではない。音の響きそのものも影響している。音が意味をこえて響きあうときもあるだろう。
 「土の湿っためぐり」は土が湿っている場と周辺という意味だろうけれど、「しめった」と「めぐり」が共有する「め」が「縁」となり「境」となり「間」となって結ばれる。「裏なのないうらで」という非論理も、「のな」という暗さを含んだなめらかな音を茶飯で、弱音の「う」と強く開放的な「ら」がくりかえされるとき、私には「肉感的」に音が響いてくる。さらに「あなた」の「あな」と結びつき、「あなうら」という、書かれていないことばが私に近づいてくる。(私は「誤読」する。)「あなうら」は「足裏」なのに、「性のない あな」を呼び覚ます。「性のない 裏、そうのら」。
 「えもいわれぬ」という音に繋がる何かがある。
 放り出されるように置かれた「さわりで、」ということばが指し示す「さみしさ」は、また、「性のない」の「性」そのもへと引き返していく感じがする。












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