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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・アメナーバル監督「アレクサンドリア」(★★★★★)

2011-03-10 21:35:26 | 映画
監督 アレハンドロ・アメナーバル 出演 レイチェル・ワイズ、マックス・ミンゲラ、オスカー・アイザック

 いわゆるコスチューム・プレイなのだが……。忘れてしまいます。4 世紀末のエジプトのアレクサンドリアであることを。宗教が対立し、図書館が破壊される。この図書館を「文明・文化」と置き換えるならば、これはそのまま「現代」。そこに繰り広げられる、宗教と哲学の対立。差別。さまざまな駆け引き。--いやあ、おもしろいですねえ。
 「現代」の問題を、アレハンドロ・アメナーバル4世紀のアレクサンドリアを舞台に借りたのは、「虚構(?)」の方が問題点をすっきりと浮き彫りにできるからなんですねえ。「アザーズ」では「死後の世界」を描くことで「見えないけれど、ある、存在するもの」として描いていたが、この映画では4世紀から「現代」を描くことで、「いまあるもの、現在」を描いていることになる。
 そして、そういう「うるさい」ことを「うるさい」感じをもたせないために、実にリアルに4世紀を再現する。これは「アザーズ」でリアルに「死後の世界」を描いたのと同じ。リアルさで、ほんとうは「現代(現実)」を描いているということを忘れさせる。簡単に言うと、「映画」の「見せ物」の世界へ、ぐいっと観客を引っ張って行ってしまう。いろいろな「現実」の問題を描きながら、あくまで「見せ物」として見せてしまう。
 立派だなあ。この職人芸。
 で、その「見せ物」として見せてしまう力として古代都市の再現があるのはもちろんなのだが、それ以上に、これはやっぱり主人公ヒュパティアにレイチェル・ワイズを起用したこと。男よりも(恋愛よりも)哲学と宇宙の真理(法則)を愛した女性。しかし、彼女はただの「学者」ではなく、魅力的。知的だが、冷たくはない。クールではあるかもしれないけれど、人間の柔らかさを感じさせる。どこかに「甘さ」を感じさせる。ヒュパティアが美貌であったか、やさしい人間であったか--それは問題ではない。アレハンドロ・アメナーバルはヒュパティアに、レイチェル・ワイズの肉体を重ねることで、ヒュパティアをとても魅力的にした。「真理(知)」により近づいている人間なら、それが「奴隷」であろうと、「学者」として対等に向き合う。学問を離れてしまうと、「奴隷」に戻されてしまうのだが、学問と接しているあいだは、ひととひととの区別をしない。宗教ももちろん、人間を区別するものとはならない。彼女にとっては、ただ「知」だけが、ある人と別のひとを区別する「基準」なのだ。
 でもね、その「基準」。とんでもないブスだったら、それが通る。けれど、その「基準」を主張する女性が、美貌で、やさしくて、どこか甘い感じがするなら……あ、男はばかだから、彼女が大切にしている「基準」をわきにおいて、男の欲望をも生きてしまう。「知」に向き合いながら、同時に自分の欲望をうまくわけることができない。この映画では「知」と「肉体」を区別できないのは、女性ではなく、男なのである。だからねえ、そこに嫉妬も入ってくる。
 とても聡明で、ヒュパティアからも一定の評価を与えられている「奴隷」も、彼女は自分を「奴隷」と呼んだ、自分のことなど結局は省みてくれない、自分の愛は彼女には届かない--と知ったときから、彼女を愛する、彼女を守るのではなく、彼女を憎んでしまう。
 ヒュパティアの教え子のひとりは、同じ生徒の男がヒュパティアに愛を打ち明けたというだけで、ヒュパティアも相手の男も憎んでしまう。尊敬することを忘れてしまう。こういうなまなましい愛憎が、宗教と入り交じりながら、時代そのものを動かしていく。
 いやあ、ほんとうにおもしろい。

 そして、この複雑な人間関係が、そのまま地球の軌道が「楕円」であることの発見と重なる。太陽が夏に近づき、冬に遠ざかるように見える。円は宇宙の完全な真理の象徴だが、地球の動きは円の軌道に乗らない。なぜ? 中心がふたつあるからだ。ふたつの中心からの距離を一定にして円を描くと楕円になる--という発見につながる。地球は楕円軌道を描いているという発見になる。
 ふたつの中心。たとえば映画では「エジプトの神」と「キリスト教」というふたつの中心が、楕円を描けずにひとつの円の主張によって、他を排斥する。「キリスト教」と「ユダヤ教」におんても同じ。うまく楕円を描くことができれば「和解」があるはずなのに、キリスト教の「中心」がユダヤ教の「中心」を消し去り、キリスト教の「円」に世界を閉じ込めてしまう。
 その最大の悲劇が「宗教」と「哲学」というふたつの中心の問題である。「宗教(キリスト教)」が「哲学」という中心を排斥する。そこに「男性」と「女性」という問題がくわわり、男の「中心」が選ばれ、女性の「中心」が抹殺される。
 ふたつある「中心」のひとつを排斥し、ひとつの「中心」だけ残し、「円」を描く。そうすることで世界を完結するという暴力。この映画は、他者を排斥することで、自己の世界を完結させることの危険性を描いているのだ。
 最後に、図書館の円の吹き抜け天井が映し出されるが、その円は円としてではなく楕円として映像化される。少し視点をずらせば、円は楕円になるからね。この映像に、アレハンドロ・アメナーバルの思想が集約されている。
 アレハンドロ・アメナーバルは世界の調和は楕円を想定することで成り立つと主張しているのである。

 ちょっと面倒なことばかり書いてしまったけれど、これはほんとうにおもしろい映画である。古代都市はどうやって撮影したのか知らないが、ほこりっぽい感じ、空気の手触りまで「古代」になっているのがすごい。多用される俯瞰のカメラ、動き回る人間の、逃げるものと襲い掛かるものの動きのリズムの違い、暴動の質感など、どの映像も「手抜き」がない。図書館が襲われ、本が焼かれるシーンなど、私は思わず中国の文化大革命を思い出してしまったが--知というものはいつでも為政者にとっては邪魔者なんだねえ。知こそが何にも変えられない「自由」そのものなんだねえ。あ、また、面倒なことを書いてしまったなあ。
 面倒なことは読まなかったことにして、古代都市と群集劇と、レイチェル・ワイズを見るだけでいいから、ぜひ、見てね。
               (福岡・中州大洋--この映画館はスクリーンが暗い)


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