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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(2)

2023-04-26 08:37:37 | 詩集

高柳誠『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(2)(ふらんす堂、2023年04月16日発行)

 高柳誠『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』は、もうひとつ「絶対に」書いておかないといけないことがある。これは「絶対に」だから、かならずだれかが書く。だから書かなくてもいいという「選択肢」もあるのだが、そして、私は実はそうしたかったのだが、書いておくことにする。

 詩集を読み始めるとすぐ「既視感」が襲ってくる。あ、どこかで読んだことがある。文学というものは新しいと同時に古いものだから、それがあるのは当たり前なのだが、そういう「既視感」ではない。
 「輾転反側する鱏たちへの挽歌のために」というタイトルの詩に繰り返されたあと、「まずは斬首された蛸が用意されるべきであろう」という詩があり、さらに「慟哭に沈潜する深海魚の群れに一錠の光がさして」「海溝はおのれの内なる深淵の詭計に耐ええずに」「狂い咲きのサンゴを沈黙の岸辺に投げつける」という具合に、詩集が構成されていく。巻頭の詩は、つまり、それ以後の詩の第一行目を並べたものなのである。一種の「目次」とも言えるが、目次は目次でちゃんと書かれている。
 さらには、本文(?)の詩「輾転反側する鱏たちへの挽歌のために」の最終行は「まずは斬首された蛸が用意されるべきであろう」であり、その「まずは斬首された蛸が用意されるべきであろう」の最終行は、次の詩「慟哭に沈潜する深海魚の群れに一錠の光がさして」なのである。(私は全部をていねいに確認したわけではないから、途中で、わざと違うことをしているかもしれないが、たぶん、そういうことはないだろう。)
 この、サンドイッチのような強固な「構造」が「既視感」を産み出している。あ、この行は読んだことがある、という思いを読み起こす。当たり前だが、詩集をつづけで読めば、だれだってその構造に気づく。
 ここからが問題である。
 この「構造」(仕掛け)と、どう向き合って、つまり詩人の仕掛けてくる「わな」とどうき合って詩を読み進むべきなのか。それが試されている。
 だから、私はすぐにはそれについて書かなかったのである。「わな」とわかっているのに、そのなかに飛びこむか。「わな」であるとき、その「わな」にかかるべきなのか、「わな」を「わな」のなかから破壊し、無効にすべきなのか。どちらにしたって、結局は「わな」であると告げるしかなくなる。これではおもしろくない。「わな」だけれど、それを「わな」ではない、と主張できるような視点を持ち込むことができるか。まあ、こう考えたときから、「わな」にかかっているのだけれどね。 

 さて。
 この「強固な構造」をもった詩集は、巻頭の詩の註釈として書かれたのか、あるいは巻頭の詩はそれにつづく詩の要約として書かれたのか。それとも、それはほんとうは無関係で、無意識を明るみに出すために書かれたのか。無意識というものはない、かならずどこかで意識として動いているということを証明するために書かれたのか。
 もし、その無意識というものにたどりつくことができたらおもしろいだろうなあと思い、私は「わな」のなかに入っていく。
 「無意識」といえば、どうしたって、「性」である。それは、この詩集ではどう展開されているか。ちょっと探ってみたい気持ちになる。

輾転反側する鱏たちへの挽歌のために
海面は自ら凪いで明日の愁いにそなえる
太陽光が仄かにゆらめく静まりかえった海底
棘皮動物が秘めやかな触手をひらめかせ
ヒエロニムス・ボッシュの描く悪鬼にも似た
軟体動物の硬化した生殖器官を愛撫し続ける

 「生殖器官」ということばが出てくる。「性」を連想するが、「生殖」と「性」は、ほんとうは違うかもしれない。ほんとうは違うけれど、「連想」が結びつけてしまうもの。その「連想」を支えているのが「無意識」かもしれない。
 「仄か」「ゆらめく」「秘めやか」というのは「性」を連想させるが、「生殖」を連想はさせない。おもしろいのは、「軟体」動物と「硬化した」ということばのつながりである。この「矛盾」が「性」をたぶん象徴しているといえるだろう。「矛盾」というか、異質でないと「性」は成り立たないのかもしれない。
 それは「異性」の交渉が「性」の基本であるという意味ではない。「同性」であっても、きっと双方の間では「異質」というか「矛盾」を探し当て、それを呼び合うのが「性」の行いなのだろう。
 「難破船」の描写には、こういう二行がある。

かつて船上で展開された血みどろの闘いのさまや
華やかな舞踏会に響く靴音の記憶を反芻しながら


 「血みどろの闘い」と「華やかな舞踏会」。そこに「響く靴音」は、そのことばの調子が軽やかなステップではなく、むしろ「軍靴」のような暴力を感じさせる。これは、「血」と「闘い」ということばのせいかもしれない。
 さらに、こんな行がある。

過去とは逃れることのできぬ桎梏の別名だろうか

 しかし、「過去」ではなく「現在」、「未来」もまた「逃れることのできぬ桎梏」と呼ぶことができるはずである。
 「矛盾」とは、ほんとうは対立ではなく、いつでも「入れ替え可能」な「誘惑」かもしれない。
 高柳は、ことばで読者を誘惑しているのか、それともことばが高柳を誘惑して、この詩集をつくらせたのか。「無意識の誘惑」をリードしているのは、どちらだろうか。

 

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