井本節山「キンモクセイ・クエスト」、カニエ・ナハ「:Plant Box」(「hotel第2章」39、2016年11月01日発行)
「hotel第2章」39は「樹木・植物考」という特集を組んでいる。井本節山「キンモクセイ・クエスト」は特集には組み込まれていないのだが……。
「探す」という動詞が「迷う」という動詞に変わる。
その過程で、一連目「鼻をくんくんさせる」は嗅覚。二連目の「甘い」も嗅覚だが、その直後の「灯り」は視覚。動いている「肉体」がかわる。「細い糸をたぐる」の「たぐる」は何だろうか。「細い」とあわせて、手の感じ(触覚)を、私は感じる。
そのあとの三連目がおもしろい。「灯り(視覚)」のあとに、「悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心」がつづき、「数々のノイズ」と言いなおしている。「ノイズ」は聴覚ということになるだろうか。さらに「ノイズ」を「私信/招待状」とも言いなおしているのだが、「私信/招待状」とは何だろう。嗅覚、視覚、聴覚と単純化できない。「私信/招待状」を「ことば」と言い換えてみると、「頭脳」によって、整理、整頓された世界ということになるかもしれない。
ここに、「迷う」が闖入してくる。
そうか。肉体を駆使して、何かを「探す」。肉体をとおしてさまざまな情報が入ってくる。輻輳する。一つではないから、「迷う」ということが始まる。
この変化が、とても自然だ。
で、「頭脳」の「迷う」のあと、「鼻」がもう一度動き始める。
四連目に「遡る」「始まり(始まる)」ということばが出てくる。輻輳する感覚のなかで最初に動いたものへと帰っていく。キンモクセイを探すというよりも、自分自身の「肉体」を探すようなおもしろさがある。
*
カニエ・ナハ「:Plant Box」は特集のうちの一篇。
「それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。」と書かれているが、読んでいる私は、ちょっと「わからない」。「わかった」とは言えない。
で、最初から読み直す。
ここには、動詞がない。細部に鋭利な影を「与える(つくる)」のが秋なのか。確かに秋は影が鋭利になるかもしれない。しかし、このときの「鋭利」は夏の鋭利とは違う。夏に比べ秋の方が、「深さ」を感じるかもしれない。これはほんとうにそうなのか、たまたま私たちの「文芸」の伝統が秋をそうやって表現することが多いからそう思うのか、判然としない。しかし、私は「鋭利」「深い」「影」ということばと「秋」は非常に「似合う」と感じる。だから
という具合に「呼ぶ」という動詞を補って読んでもいいかなあ、と思う。
私が「呼ぶ」を補って読んだことばは、また「秋を現実の細部に鋭利な深い影と呼ぶ」という具合に入れ換えることもできると思う。「呼ぶ」という動詞があっても入れ替え可能ということは、呼ぶがない場合はもっと容易に入れ替え可能ということでもある。
そして、思うのだが、このカニエの詩では、書かれていることが全て入れ換え可能なのではないだろうか。
「人」と「箱」は、どちらが「放棄された」のか。「放棄された」は「放棄した」かもしれない。「人」が「箱」を「放棄した」のか「箱」が「人」を「放棄した」のか。「主語」を変えれば「放棄された(受動)」は「放棄した(能動)」になる。「怖がっていた」のは「人」か「箱」か。もちろん「箱」は「感情」を持たないから「箱が怖がる」というのは非論理的だが、「比喩」としてならば成り立つ。
これも、非論理的なことばであるけれど、この「非論理」そのものが「比喩」なのである。存在しないものに、何かが「似る/似ている」ということは不可能だが、「似る」という動詞は、何かと何かが「似る」という形で成り立っているので、「似る/似ている」という動詞をつかうとき、そこにそれが存在していようが存在していまいが関係がない。だいたい「比喩」というのは、そこにあるものをそれ以外のもので言いなおすことだから、「比喩」は「存在しない(不在)」の証明でもある。
「きみは薔薇(のように美しい)」というとき、「きみ」は「薔薇」ではない。「薔薇ではない」からこそ「薔薇である」という「比喩」が成り立つ。
「比喩」のなかで存在と不在が入れ替わることが、「比喩」が成立する条件である。
だから、というのは論理の飛躍だが、(私は年末から風邪を引いて頭が働かないので、と、ここで強引に個人的な事情を割り込ませて端折るのだが)、この詩では、書かれている「断定」を「断定」されたものではなく、もっと不確かなものへと変換しながら読むべきなのだ。
とカニエは書いているが、誰がいるのか。「私(話者)」がいると考えるのがいちばん簡単だ。そう考えた後、では「誰がいないのか」と入れ換えてみる。「愛する人」が「いない」のだ。「愛する人がいない」から、その「不在(長い忘却)」を「取り戻す」ために「夢」を見る。「夢の中で」「愛する人」を「復活」させる。そういうことをするためには、愛する人は「不在」でなければいけない。「不在」を実感するためには、「私(話者)」は「ここにいる」必要がある。「理由」がある。
植木鉢(プランター)に植物が植えられているのか、植物は枯れてしまって、もう土だけなのか。その「存在」があらゆる「不在」を、しかも「存在した何か」を呼び起こす。「存在」と「不在」が交錯しながら「いま/ここ」が「ある」。
井本は「探す」から始まり「迷う」にたどりつき、「始まり」へと帰って行ったが、カニエは「探す」という動詞の中に「迷う」ことをつづけている。「迷う」ことが「探す」であると踏みとどまっている。
「hotel第2章」39は「樹木・植物考」という特集を組んでいる。井本節山「キンモクセイ・クエスト」は特集には組み込まれていないのだが……。
夜になるとキンモクハセイを探しに出る。見知らぬ角々に立ちどまっては。
肌寒いくらがりで。風のなかに鼻をくんくんさせる。
甘い、ほのかに燈る、オレンジの灯りを求めて。
角から角へ曲がり続ける。細い糸をたぐるように。
探すこと。かすかな灯りの方向へ。悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心……
それらはくらがりの数々のノイズの混じった、短い私信であり、
質素な招待状。迷うこと。角々に立ち、鼻先を羅針盤として、選り分けて。
風上へ、遡る。始まりのところへ。
ずっとそうだった。ずっとそうなのだろう。匂いに導かれて、そして角々で迷う。
「探す」という動詞が「迷う」という動詞に変わる。
その過程で、一連目「鼻をくんくんさせる」は嗅覚。二連目の「甘い」も嗅覚だが、その直後の「灯り」は視覚。動いている「肉体」がかわる。「細い糸をたぐる」の「たぐる」は何だろうか。「細い」とあわせて、手の感じ(触覚)を、私は感じる。
そのあとの三連目がおもしろい。「灯り(視覚)」のあとに、「悪意、嫉妬、悲しみ、不安、無関心」がつづき、「数々のノイズ」と言いなおしている。「ノイズ」は聴覚ということになるだろうか。さらに「ノイズ」を「私信/招待状」とも言いなおしているのだが、「私信/招待状」とは何だろう。嗅覚、視覚、聴覚と単純化できない。「私信/招待状」を「ことば」と言い換えてみると、「頭脳」によって、整理、整頓された世界ということになるかもしれない。
ここに、「迷う」が闖入してくる。
そうか。肉体を駆使して、何かを「探す」。肉体をとおしてさまざまな情報が入ってくる。輻輳する。一つではないから、「迷う」ということが始まる。
この変化が、とても自然だ。
で、「頭脳」の「迷う」のあと、「鼻」がもう一度動き始める。
四連目に「遡る」「始まり(始まる)」ということばが出てくる。輻輳する感覚のなかで最初に動いたものへと帰っていく。キンモクセイを探すというよりも、自分自身の「肉体」を探すようなおもしろさがある。
*
カニエ・ナハ「:Plant Box」は特集のうちの一篇。
現実の細部に鋭利な深い影を秋。穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された
箱が与える、無限の概念に怖がっていた。存在しない姉妹に似ている。枝折を
読んで、その教えを呼吸するための箱。あるいは幸せだった最後の時。やがて
世界を去ったとき、次の樹にいる二人を結びつける黄金の空に蜂。雲の両端の
それぞれが何世紀にもわたって、熱が生成され。深く離脱している。根も葉も
飛んで美しい。埃の多い木曜日は、長い忘却を取り戻すための夢の中で愛する
人の復活の物語を肖像する。それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。
「それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。」と書かれているが、読んでいる私は、ちょっと「わからない」。「わかった」とは言えない。
で、最初から読み直す。
現実の細部に鋭利な深い影を秋。
ここには、動詞がない。細部に鋭利な影を「与える(つくる)」のが秋なのか。確かに秋は影が鋭利になるかもしれない。しかし、このときの「鋭利」は夏の鋭利とは違う。夏に比べ秋の方が、「深さ」を感じるかもしれない。これはほんとうにそうなのか、たまたま私たちの「文芸」の伝統が秋をそうやって表現することが多いからそう思うのか、判然としない。しかし、私は「鋭利」「深い」「影」ということばと「秋」は非常に「似合う」と感じる。だから
現実の細部に鋭利な深い影を秋と呼ぶ。
という具合に「呼ぶ」という動詞を補って読んでもいいかなあ、と思う。
私が「呼ぶ」を補って読んだことばは、また「秋を現実の細部に鋭利な深い影と呼ぶ」という具合に入れ換えることもできると思う。「呼ぶ」という動詞があっても入れ替え可能ということは、呼ぶがない場合はもっと容易に入れ替え可能ということでもある。
そして、思うのだが、このカニエの詩では、書かれていることが全て入れ換え可能なのではないだろうか。
穏やかな、静かな秋の静かな人が放棄された箱が与える、無限の概念に怖がっていた。
「人」と「箱」は、どちらが「放棄された」のか。「放棄された」は「放棄した」かもしれない。「人」が「箱」を「放棄した」のか「箱」が「人」を「放棄した」のか。「主語」を変えれば「放棄された(受動)」は「放棄した(能動)」になる。「怖がっていた」のは「人」か「箱」か。もちろん「箱」は「感情」を持たないから「箱が怖がる」というのは非論理的だが、「比喩」としてならば成り立つ。
存在しない姉妹に似ている。
これも、非論理的なことばであるけれど、この「非論理」そのものが「比喩」なのである。存在しないものに、何かが「似る/似ている」ということは不可能だが、「似る」という動詞は、何かと何かが「似る」という形で成り立っているので、「似る/似ている」という動詞をつかうとき、そこにそれが存在していようが存在していまいが関係がない。だいたい「比喩」というのは、そこにあるものをそれ以外のもので言いなおすことだから、「比喩」は「存在しない(不在)」の証明でもある。
「きみは薔薇(のように美しい)」というとき、「きみ」は「薔薇」ではない。「薔薇ではない」からこそ「薔薇である」という「比喩」が成り立つ。
「比喩」のなかで存在と不在が入れ替わることが、「比喩」が成立する条件である。
だから、というのは論理の飛躍だが、(私は年末から風邪を引いて頭が働かないので、と、ここで強引に個人的な事情を割り込ませて端折るのだが)、この詩では、書かれている「断定」を「断定」されたものではなく、もっと不確かなものへと変換しながら読むべきなのだ。
それでやっと、いま、ここにいる理由がわかった。
とカニエは書いているが、誰がいるのか。「私(話者)」がいると考えるのがいちばん簡単だ。そう考えた後、では「誰がいないのか」と入れ換えてみる。「愛する人」が「いない」のだ。「愛する人がいない」から、その「不在(長い忘却)」を「取り戻す」ために「夢」を見る。「夢の中で」「愛する人」を「復活」させる。そういうことをするためには、愛する人は「不在」でなければいけない。「不在」を実感するためには、「私(話者)」は「ここにいる」必要がある。「理由」がある。
植木鉢(プランター)に植物が植えられているのか、植物は枯れてしまって、もう土だけなのか。その「存在」があらゆる「不在」を、しかも「存在した何か」を呼び起こす。「存在」と「不在」が交錯しながら「いま/ここ」が「ある」。
井本は「探す」から始まり「迷う」にたどりつき、「始まり」へと帰って行ったが、カニエは「探す」という動詞の中に「迷う」ことをつづけている。「迷う」ことが「探す」であると踏みとどまっている。
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