松木俊治「どうして」(「豹樹」19、2013年07月31日発行)
松木俊治「どうして」は特に変わったことが書いてあるわけでもないのだが。
「雨ざらしの」ベンチ、「薄暮の」空--には「詩」の連想がからみついていて、あまりおもしろくない。
ところが突然、
と、ふいに「詩」がはぎとられる。「詩の連想」が無意味になる。「始まりがなく/終わりもない」とはどういうことだろうか。松木はふいに何を見つけたのだろうか。
グラウンド、部活から松木の記憶は過去へと動いていく。
「理不尽でも/当然でもなかった」は「始まりがなく/終わりもない」の言い方に似ている。なにか通いあうものがあるのだろう。「その前も/そのあとも」になると、もう完全に「始まりがなく/終わりもない」になる。「その前も/そのあとも」は「時間」の「前/あと」だけれど、それを空間に(道に)置き換えてみると、松木がいる「ここ」の「前」と「あと(後ろ)」に道があって、それはどっちが始まりともどっちが終点(?)ともわからず、ただつづいている。
どっちでもいい。
この感じが「持て余す」という動詞と重なる。
これはいいなあ。
何とはなしに「肉体」を感じる。この「感じ」を「肉体」が覚えていることを思い出す。
何を持て余すのか。
「感情」というよりも、感情にととのえられない(感情になりきれない)肉体を持て余すんだろうなあ。
いま引用した部分にも「暗くなりはじめた」とか「小雨」とか「詩」を連想させることばが動いているけれど、それを「理不尽」「当然」ということばが洗い流し、あいまいな「その前/そのあと」ということばへゆらぎ、そのあとで「持て余す」があらわれると、ことばが消滅して「肉体」だけが取り残される。
こういう抒情は好きだなあ。べたべたしていない。感情がないからべたべたできない。
つくり出されたものではない「偶然」がある。「無意味」がある。「もの」がある。そこには「理由(どうして)」を拒む詩がある。
松木俊治「どうして」は特に変わったことが書いてあるわけでもないのだが。
坂を下りる
そこにバス停がある
雨ざらしの
ベンチに座りしばらくやすむ
もういちど
坂を下りる
薄暮の青空
グラウンドからは部活の声も聴こえてくる
ずっとつづく道には
始まりがなく
終わりもない
「雨ざらしの」ベンチ、「薄暮の」空--には「詩」の連想がからみついていて、あまりおもしろくない。
ところが突然、
始まりがなく
終わりもない
と、ふいに「詩」がはぎとられる。「詩の連想」が無意味になる。「始まりがなく/終わりもない」とはどういうことだろうか。松木はふいに何を見つけたのだろうか。
グラウンド、部活から松木の記憶は過去へと動いていく。
暗くなりはじめたテニスコートに
こさめか降っていた
ながい叱責だった
あのとき
ぼくは英語教師の黒くて太い
眼鏡の縁ばかりをみていた
それは
理不尽委でも
当然でもなかったけれど
その前も
そのあとも
ぼくはただ
持て余したままだった
「理不尽でも/当然でもなかった」は「始まりがなく/終わりもない」の言い方に似ている。なにか通いあうものがあるのだろう。「その前も/そのあとも」になると、もう完全に「始まりがなく/終わりもない」になる。「その前も/そのあとも」は「時間」の「前/あと」だけれど、それを空間に(道に)置き換えてみると、松木がいる「ここ」の「前」と「あと(後ろ)」に道があって、それはどっちが始まりともどっちが終点(?)ともわからず、ただつづいている。
どっちでもいい。
この感じが「持て余す」という動詞と重なる。
これはいいなあ。
何とはなしに「肉体」を感じる。この「感じ」を「肉体」が覚えていることを思い出す。
何を持て余すのか。
「感情」というよりも、感情にととのえられない(感情になりきれない)肉体を持て余すんだろうなあ。
いま引用した部分にも「暗くなりはじめた」とか「小雨」とか「詩」を連想させることばが動いているけれど、それを「理不尽」「当然」ということばが洗い流し、あいまいな「その前/そのあと」ということばへゆらぎ、そのあとで「持て余す」があらわれると、ことばが消滅して「肉体」だけが取り残される。
こういう抒情は好きだなあ。べたべたしていない。感情がないからべたべたできない。
窓から真夏の風に揺れる
一枚の赤いタオル
どうして
と問いかける
つくり出されたものではない「偶然」がある。「無意味」がある。「もの」がある。そこには「理由(どうして)」を拒む詩がある。
![]() | ぼくはみじかいけれど手紙を書いた―松木俊治詩集 |
松木俊治 | |
ふたば工房 |