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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(35)

2015-03-08 17:45:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
66 ヒロシマ神話

 この詩には、どんな解説もいらない。ただ読めばいい。

失われた時の頂きにかけのぼつて
何を見ようというのか
一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩いている

 (死はぼくたちに来なかつた)
 (一気に死を飛び越えて魂になつた)
 (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

そのなかのひとりの影が石段に焼きつけられている

 (わたしは何のために石に縛られているのか)
 (影をひき放されたわたしの肉体はどこへ消えたのか)
 (わたしは何を待たねばならぬのか)

それは火で刻印された二十世紀の神話だ
いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ

 書く必要はない。けれど、私は、あえて感想を書く。
 「一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩いている」と嵯峨は「現在形」で書いている。そして、その「現在形」はいまでも「現在形」であり、「過去形」ではない。だから、書きたい。「現在形」を引き継ぐために。

 (死はぼくたちに来なかつた)

 この一行が痛切だ。原爆によって奪われたいのち。それは死ではない。いのちの略奪だ。一瞬にして亡くなったひとはもちろん、苦しみながら亡くなった人も、死を受け入れる準備がなかった。

 (一気に死を飛び越えて魂になつた)
 (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

 「ほんとうの死」は原爆が廃絶されたときに、やっともたらされる。亡くなった人のために、その告発に応えるために、核兵器は廃絶されなければならない。
 原爆によって焼き付けられ石段の影、

いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ

 「消す」ではなく、「解き放つ」。解き放たれて「影」は「肉体」に還る。そのとき、初めて「死」が「死」として完結する。
 「解き放つ」は、そのとき核兵器の恐怖からの「解き放ち」、「自由」である。


67 日蝕

どこまでもつづいている高い壁にかこまれた庭の一隅に
小さな火をつけているゼラニウムの花に水をやるものはいないか

 これは不思議なイメージである。「小さな火」を花びらと読むこともできる。私は、それを原爆の火と読んだ。原爆は人間のからだを一瞬の内に火炎のなかに投げ込んだ。その火がゼラニウムに飛び移った。そして、燃えている。小さな花なのに燃えている。小さな花だから消さなくても(水をかけなくても)消える。
 だが、「消える」と「消す」は違うのだ。
 そこに起きていることを理解し、そのために何ができるか。水をかけて火を消したところでゼラニウムは枯れて死んでしまう。そうわかっていても、水をやる。火が消えたあとも、もう一度花が咲くようにと水をやる。それが「誠意」というものなのだ。
 水をもとめてさまよったひとたち。大人もこどもも。そのとき、そこではどんな「誠意」が可能なのだろうか。

 アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮だ、と言われる。しかし、私は、そんなふうに考えたことはない。「誠意」は「野蛮」を洗い流す。
 「アウシュビッツ」を「広島、長崎への原爆投下」と読み替え、書かれた詩のことを想像すると、簡単に「アウシュビッツ……」という声に与することはできない。
 広島への原爆投下、長崎への原爆投下のあとに詩を書くことは野蛮か。「野蛮」ということばで詩を書くこと、詩を読むことを遠ざけてはいけない。詩は書かれなければならないと思う。核兵器が廃絶され、核兵器の野蛮から人間が解き放たれるまで書きつづけられなければならない。そして、その詩は読まれつづけなければならないと思う。
 --この書き方に対しては「文脈のすりかえ」という批判があるかもしれない。「誤読」という批判があるかもしれない。しかし、私は「文脈をすりかえ」たい。「誤読」をしたい。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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