杉本徹「アコーディオン・ソング」(「現代詩手帖」2010年12月号)
杉本徹「アコーディオン・ソング」は、少しずつことばが乱れていく。その乱れのなかに、「思想」がある。
「乱れる」と私が書いたのは、たとえば6行目と、14行目の比較の問題である。6行目の「(……わたしは」は、それ以前の5行が「あなた」の描写であり、描写しているのは「わたし」ではなるけれど、形式上の主語は「あなた」であると語っている。ところが14行目では、その二重構造はぐいと接近している。
ここでは「わたし」は「あなた」と区別がおこなわれていない。6行目の形式を踏まえているために「わたし」はかっこのなかに入っているのだが、それは形式にすぎない。意識のなかでは「わたし」の方が強いのかもしれない。
と書きたいのだが、6行目で「わたし」をかっこのなかに入れてしまったために、その入れ替えができないのである。--いいかえると、杉本はいったん採用した形式にしたがってことばを動かしつづけるということになる。ことばの自由な運動を「形式」で縛り上げる。そこから「乱れ」がはじまる。
「乱れ」には「無軌道」があるのではなく、「形式」と「形式を破ろうとする何か」のせめぎ合いがあるのだ。そういう対立というか、ふたつの存在をみきわめながらことばを動かすというのが、杉本の「思想」であり、「ふたつ」の間で乱れる、というのが杉本の抒情なのである。
そのことが一番端的に出ているのが「あなた」と「わたし」である。「あなた」がいて、「わたし」がいる。「あなた」が語り、「わたし」は語らなかった。しかし、語らなかったからといって、そのとき、「わたし」にことばが存在しなかったということではない。語らないときでも「わたし」のなかには「無音」のままことばが「漲っている」。それは、あるとき、自然にこぼれてしまう。
そして、詩に、なる。
という行が象徴的だが、杉本のこの詩には読点「、」が何回も出てくる。そして、この行の読点が特徴的なのは、ふつうは「言葉少なに愛した」と読点なしにいわれるようなことばなのにそこに読点があるということだ。
これも実は「あなた」「わたし」のように、ふたつのことがらなのだ。
「言葉少なに愛した」のではなく、「言葉少なに」という状態がいったん意識される。それから「愛した」という「動詞」が動く。「言葉少なに」と「愛した」の間には「断絶」がある。「接続」よりも「断絶」が意識されている。
「接続」と「断絶」の関係は不思議なもので、「断絶」が意識されれば意識されるほど「接続」も切実に意識される。
「あなた」と「わたし」の間には誰がみてもわかる「明確な断絶」がある。その「誰がみてもわかる断絶」は、ふたりには意識されないことがある。たとえば、愛し合っているときに。けれどその愛がゆらいだとき、そこに生まれる「断絶」は、他人からみれば「接続」しているとしか見えない「断絶」だったりする。また、その「断絶」を「わたし」が意識するとしたら、それは「接続」への渇望があるからである。
「断絶」と「接続」は、簡単に、ある状態を「断絶」、あるいは「接続」と断定できない。
その「断絶」と「接続」の意識が、杉本のことばを、不思議な形で衝突させ、そこに悲鳴のようなものをしのびこませる。この不思議さを、私は「乱れ」と呼んでいる。
この「乱れ」が一番大きくなるのは、次の部分である。
「空」を何と読むか。杉本にはわかっているだろうけれど(わかっているから、ルビをふったりはしないのだと思うが)、私にはわからない。「そら」とも読めるし「くう」とも読める。「から」とは読まないとは思うが……。
悩みながらも、私は、最初は「そらではない」と読み、次は「くうではなく」と読む。鳥を囲うのは「そら」である。けれど「時間」と対比されるのは「空間」だからである。そうすると「そら」というひとつの文字が、あるときは「そら」と読まれ、すぐあとには「くう」と読まれるという変な現象が起きる。「接続」しながら「断絶」するということがおきる。「乱れ」がおきる。
「乱れ」が生まれるのだけれど、その「乱れ」を修正するのではなく、「乱れ」のまま、「いま」「ここ」に存在させる。そしてそれを「持続」させる。
「断絶」「接続」のほかに「持続」というものがあるのだ。そして、その「持続」の主語は「わたし」であり、そのとき「わたし」がひとつの「抒情」になる。詩になる。
「まばゆい」と「暗い」は反対のものである。それが読点「、」によって「切断」されることで「連続」する。読点を、たとえば「反対のものであると意識することによって結びつける力」と定義すると、「まばゆい」と「暗い」はその「定義」のなかで「持続」される。その「定義」を「持続」させるのは「心」というものであり、「持続」であるかぎり、そこには「時間」がある。その「持続・時間」のなかでの、意識された「乱れ」(わざと書かれた乱れ)を、杉本は「ざわめき」と呼んでいる--この詩では。
(「アコーディオン・ソング」の初出は「読売新聞」2009年12月19日)

杉本徹「アコーディオン・ソング」は、少しずつことばが乱れていく。その乱れのなかに、「思想」がある。
午後のはてで雲が切れた--
そのようにあなたは影を飼い、冬の大気の鼓動を
言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの
灰白色の陶器の皿の、北には
モノクロームの廃星とクレヴァスが、映りこむはず
(……わたしは記憶の底に射す昼の色を、だから語らなかった)
踏みしだいた雑草の渇きと、吹きつのる風の予兆、を
うつむきがちに告げながら
傾斜地をたどった、……その数刻を
追うこと、たとえば
あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で
ある、ように
あなたの(わたしの)滞空時間とは漲る無音の
裂け目のようなもの、手をつけば、……かえれない
うしろの、薄陽の痕跡を振りかえるとき
ほどけてゆく風景の階段下には、二輪車、泥靴、ペニンシュラ
そしていっせいに流れる葉という名の、乾いた地図を忘れ去ると
まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた
「乱れる」と私が書いたのは、たとえば6行目と、14行目の比較の問題である。6行目の「(……わたしは」は、それ以前の5行が「あなた」の描写であり、描写しているのは「わたし」ではなるけれど、形式上の主語は「あなた」であると語っている。ところが14行目では、その二重構造はぐいと接近している。
あなたの(わたしの)滞空時間とは
ここでは「わたし」は「あなた」と区別がおこなわれていない。6行目の形式を踏まえているために「わたし」はかっこのなかに入っているのだが、それは形式にすぎない。意識のなかでは「わたし」の方が強いのかもしれない。
わたしの(あなたの)滞空時間は
と書きたいのだが、6行目で「わたし」をかっこのなかに入れてしまったために、その入れ替えができないのである。--いいかえると、杉本はいったん採用した形式にしたがってことばを動かしつづけるということになる。ことばの自由な運動を「形式」で縛り上げる。そこから「乱れ」がはじまる。
「乱れ」には「無軌道」があるのではなく、「形式」と「形式を破ろうとする何か」のせめぎ合いがあるのだ。そういう対立というか、ふたつの存在をみきわめながらことばを動かすというのが、杉本の「思想」であり、「ふたつ」の間で乱れる、というのが杉本の抒情なのである。
そのことが一番端的に出ているのが「あなた」と「わたし」である。「あなた」がいて、「わたし」がいる。「あなた」が語り、「わたし」は語らなかった。しかし、語らなかったからといって、そのとき、「わたし」にことばが存在しなかったということではない。語らないときでも「わたし」のなかには「無音」のままことばが「漲っている」。それは、あるとき、自然にこぼれてしまう。
そして、詩に、なる。
言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの
という行が象徴的だが、杉本のこの詩には読点「、」が何回も出てくる。そして、この行の読点が特徴的なのは、ふつうは「言葉少なに愛した」と読点なしにいわれるようなことばなのにそこに読点があるということだ。
これも実は「あなた」「わたし」のように、ふたつのことがらなのだ。
「言葉少なに愛した」のではなく、「言葉少なに」という状態がいったん意識される。それから「愛した」という「動詞」が動く。「言葉少なに」と「愛した」の間には「断絶」がある。「接続」よりも「断絶」が意識されている。
「接続」と「断絶」の関係は不思議なもので、「断絶」が意識されれば意識されるほど「接続」も切実に意識される。
「あなた」と「わたし」の間には誰がみてもわかる「明確な断絶」がある。その「誰がみてもわかる断絶」は、ふたりには意識されないことがある。たとえば、愛し合っているときに。けれどその愛がゆらいだとき、そこに生まれる「断絶」は、他人からみれば「接続」しているとしか見えない「断絶」だったりする。また、その「断絶」を「わたし」が意識するとしたら、それは「接続」への渇望があるからである。
「断絶」と「接続」は、簡単に、ある状態を「断絶」、あるいは「接続」と断定できない。
その「断絶」と「接続」の意識が、杉本のことばを、不思議な形で衝突させ、そこに悲鳴のようなものをしのびこませる。この不思議さを、私は「乱れ」と呼んでいる。
この「乱れ」が一番大きくなるのは、次の部分である。
あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で
「空」を何と読むか。杉本にはわかっているだろうけれど(わかっているから、ルビをふったりはしないのだと思うが)、私にはわからない。「そら」とも読めるし「くう」とも読める。「から」とは読まないとは思うが……。
悩みながらも、私は、最初は「そらではない」と読み、次は「くうではなく」と読む。鳥を囲うのは「そら」である。けれど「時間」と対比されるのは「空間」だからである。そうすると「そら」というひとつの文字が、あるときは「そら」と読まれ、すぐあとには「くう」と読まれるという変な現象が起きる。「接続」しながら「断絶」するということがおきる。「乱れ」がおきる。
「乱れ」が生まれるのだけれど、その「乱れ」を修正するのではなく、「乱れ」のまま、「いま」「ここ」に存在させる。そしてそれを「持続」させる。
「断絶」「接続」のほかに「持続」というものがあるのだ。そして、その「持続」の主語は「わたし」であり、そのとき「わたし」がひとつの「抒情」になる。詩になる。
まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた
「まばゆい」と「暗い」は反対のものである。それが読点「、」によって「切断」されることで「連続」する。読点を、たとえば「反対のものであると意識することによって結びつける力」と定義すると、「まばゆい」と「暗い」はその「定義」のなかで「持続」される。その「定義」を「持続」させるのは「心」というものであり、「持続」であるかぎり、そこには「時間」がある。その「持続・時間」のなかでの、意識された「乱れ」(わざと書かれた乱れ)を、杉本は「ざわめき」と呼んでいる--この詩では。
(「アコーディオン・ソング」の初出は「読売新聞」2009年12月19日)
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