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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(36)

2023-01-14 10:16:25 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(36)(思潮社、2022年12月1日発行)

 舞城王太郎「Jason Fourthroomから」。新幹線に飛び込み自殺した「女の子」が登場する。彼女のことを、こう書いている。

彼女はわざとそんなふうに死んでみせたのだ、と。
彼が困っていたことは
  わざと新幹線に撥ねられて130メートル飛んで無傷で死んでしまうような女の子が
自分のことを好きになったことだった。

 「わざと」が二回登場する。
 谷川俊太郎の「わざわざ書く」を取り上げたとき、そしてこの連載を書き始めたとき、私はこの舞城の詩を知らなかった。知らないまま、「わざわざ」と「わざと」を比較しながらいろいろなことを考えた。
 そのなかに「自然」ということばもつかった。それが、こんなふうに出てくる。

もしかして 僕は 今でも
  彼女のことが好きなんじゃないかと
     思うことがある。
(略)
それは自然だし
  ある意味お前が健全な証拠だ、と
    友達は言った。

 「わざと」自殺した彼女について「もしかして 僕は 今でも/彼女のことが好きなんじゃないかと/思うことがある。」と書くのは「わざわざ」なのだが、その「わざわざ」は「自然」なのだ。「自然」に思い出してしまう。思ってしまう。それは「思う」だけで、こころの内にしまっておいてもいいのだが、「わざわざ」書く。書かずにいられない。言わずにいられない。思いがあふれてくる。それは「自然」にあふれてくる。それを「健全」ということばで言い直している。
 この「健全」は、しかし、矛盾を抱えている。

でも健全であることはとても苦しい。
 特に 一人で 朝早く
    目が覚めた時なんか。

 「健全」が「楽しい/うれしい」とは限らない。「苦しい」。この矛盾のなかに、詩がある。「わざわざ」書かなければならないものがあるとしたら、それは、この矛盾なのだ。
 こう書くと、私がいつも書いている「矛盾が詩である」ということばにもつながる。
 特に、そういうこととつなげて書くつもりでこの連載を書き始めたのではないのだが、何かについて書いていけば、おのずとことばはつながってしまう。変化しながら、変化しないものにつながってしまう。
 舞城の詩の感想になっていないかもしれないが、舞城が書いている「わざと」「自然」「健全」「苦しい」ということばの変化(脈絡)には、強い「ことばの肉体」と「肉体のことば」の共振がある。

 山崎るり子「猫町 から」。「理髪店」という詩が、ちょっと宮澤賢治の世界の透明感を持っていて楽しいのだが、引用するのは「金物屋」。

雪の日は冷たい音がする
金物屋の主人は並んでいる鍋を菜箸で叩いて
ねこふんじゃったを演奏できる
たださっきじゃったが売れてしまった

 ねこふん「じゃった」が、さっき「じゃった」に変化する。これは「わざと」だろうけれど、「わざと」が瞬間的に終わってしまうので、「わざわざ」になる。瞬間的というのは、すぐに消えてしまう。それを消させないために「わざわざ」書く。
 舞城の詩で自殺した「女の子」は、この世から消えてしまう。「あっと言う間」、ある意味では「瞬間」的に消えてしまう。それを消えないようするために「わざわざ」詩を書くのである。そうやって「わざわざ」、「健全に/苦しむ」のである。それが人間の「ことば」なのだ。

 和合亮一「SILVERFISHから」。

あなたであるために
         あなたが漏らした
                涙かもしれないのだが

 〇〇で「あるために」。「ある」は英語で言えば「be動詞」か。「生きる」という意味を含むか。舞城の「健全であること」の「苦しみ」(の涙)とつづけて読むことができるかもしれないが、それは「頭」のなかでの論理。つながるはずなのに、つなげると「わざと」になってしまう。
 私は、そういう「結論」は、好きではない。
 こんなことを思うのも、その前に、和合がこんなことを書いているからだ。

読者諸氏よ
  あなたの眼に映る私の詩行は
         あなたの精神の電信柱になり得ている
だろうか

 「だろうか」という反問的疑問は、「もちろん」なり得ているという「強調された肯定」を要求している。この「わざわざ」が、私には「わざと」に感じられる。「自然」ではないし、「健全」でもない。つまり。この「だろうか」には「苦しみ」がない。「不安」がない。「自己否定」がない。
 「自己否定」というのは、こういう具合につかうべきだったんだなあ、と私は、ふと昔を思い出してしまった。和合は何歳か知らないが、和合は、この「自己否定」ということばが飛び交った時代を、どうやって生きていたんだろうと、ふと思いもしたのである。「あなたの精神の電信柱」なんて、どこから思いついた(どこからやってきた)ことばなんだろう、とも思ったのだ。

 

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