詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充「藤枝教会」

2016-05-04 10:31:30 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「藤枝教会」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 江代充をもう一篇読んでみる。「三つのクレメンス 改稿のあと」から「藤枝教会」。

クリスマスの夜(よる)
このせまい敷地内へ
羊の門を通って迎えにきていた母と
聖劇のうえで
移動する太陽の役がらをなし終え
休みなく老いたように
屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが
その日初めて出会い
そのちぐはぐな会話によって
そこからともに門へ向かった場所に
わたしはきている
いつの間にか日の暮れた
あのクリスマスの夜とおなじく

 江代の文体は「粘着力」に特徴がある。
 二行目の「このせまい敷地内へ」の「この」、さらに後半の「その日初めて出会い/そのちぐはぐな会話によって/そこからともに門へ向かった場所に」の三行の、「その」「その」「そこ」という指示詞は、意識を「いま/ここ」ではなく、すでに知っている「こと」へと意識を引き戻す。その「引き戻し」に「粘着力」があるのだが、こういう「指示詞」の粘着力は、多くのひとが使いこなしている。それとは別の部分について書いてみたい。
 江代の「動詞」のつかい方に、私は「粘着力」を感じる。

羊の門を通って迎えにきていた母と

わたしはきている

 行が離れた場所で「きていた(過去)」と「きている(現在)」が重なる。「くる」という動詞が重なる。
 前者は「きていた母」という具合に、動詞は「連体形」。「連体形」+「名詞」なので、意識は「名詞」に集中するのだが、そこには「動詞」の動きもある。「羊の門を通って迎えにきていた母」は「母は羊の門を通って迎えにきていた」でもある。そして、そこには「通る」「迎える」という動詞も同時に動いている。「わたし」は「母」という存在(名詞)を見ている(認識している)だけではなく、「母」の行動(動詞/動き)を見ている。
 そのときに「見た(認識した)」母の「動詞」そのものを、「きているわたし」が「きている」という「動詞」で反復するときに、反復するのである。この瞬間に、江代の「粘着力」は強くなる。
 「動詞」が単純にひとつの「行動/動き」をあらわすのではなく、動くことによって、他の動きを「いま/ここ」にひっぱり出す。「動詞」の背後で、別の「動詞」が動き、そのことによって「時間」が「つながる」。この「つながり」が「粘着力」である。
 さらに、ここには、

羊の門を通って迎えにきていた母と

そこからともに門へ向かった場所に

 という「門」を中心にした「通って(きた)」、「向かった(向かっていく)」という逆向きの運動が、衝突することなく、融合する。それが「粘着力」をさらに感じさせる。「動詞」は動きが反対であっても、かたく結びつき、融合するのである。
 このことは、別の行の対比でもわかる。

移動する太陽の役がらをなし終え

屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが

 ここには「なし終え」「歩きはじめた」と「終える」「はじめる」の対比があり、それは「句点」によって切断されることなく「連続」する。この「連続」を「肉体内部の融合」ととらえてみることもできると思う。
 この「連続」のなかに、

休みなく老いたように

 の「休みなく」という「連続」を強調することばが差し挟まれる。「肉体感覚」として、「老いた」という「経過」を含みながら、ことばが「連続」する。

休みなく老いたように

その日初めて出会い

 ここでは、「老いた」と「初めて」が対比される。この「対比」は「終える」「はじめる」の対比と重複しながら動いている。何かを「なし終える」には時間がかかる。それは「老いる/老人(年齢の対比で言えば、ここに書かれている「母」も、当時の「わたし」からは年を経た人である)」につながる。また「はじめる」のは「初めて」のことであり、それも重なり合う。
 こういう「重なり合い」が、最終行、

あのクリスマスの夜とおなじく

 の「おなじく」となって結晶する。
 「おなじく」は、きのう読んだ「初めてのかなしみ」に

地の土の荒さや
小石のつぶつぶとおなじく

 という形でもつかわれていた。江代の詩には書かせない「ことば」なのだろう。
 この「おなじく」は「おなじ」ではない、ということが、私には、またおもしろく感じられる。「おなじく」は「副詞」。「おなじく」のあとに「動詞」があるはずである。
 「あのクリスマスの夜とおなじく」、「わたし」はどうしたのか。

あのクリスマスの夜とおなじく
わたしはきている

 のである。
 だから、この詩を読んだ瞬間、こんなふうに前の行に戻ってしまうなら、最後の二行はなくてもいいのではないか、と私は感じた。いまでも、そう感じている。最後の二行はない方が、いわゆる「余韻」があると私は感じる。しかし、これはあくまで私の「感じ」であって、江代は最後の二行を書かずにはいられない。「おなじく」ということばで、世界を反復し、「粘着力」をより強くせずにはいられない。
 それが江代なのだ。
 反復することで、動詞に「枠」を与える。「枠」のなかの「時間」を濃密にする。閉ざすことによって、「粘着力」を強くする。

 反復による「枠」づくり、これは反復による「内部」づくり、と言い換えることもできるかもしれない。「動詞」ではなく、「名詞」から、その点について何か書けるだろうか。

このせまい敷地内へ

 何気なく書かれている「内」ということば。文字。「門」も「内部/外部」をわける象徴として書かれているのだと思う。

屋内から外に向かって歩きはじめたわたしとが

 ここには「屋内」と「外」という形で「内」が意識されている。

聖劇のうえで

 この「うえで」は「なかで」と言い換えることができる。「うえで」は「なかで/うちで」でもある。「屋内」は単なる建物の「内部」を指しているだけではなく、「劇」の「内部」と重なり合う。

移動する太陽の役がらをなし終え

 の「役がら」ということば、特に「がら」が、おもしろいと思う。
 きのう読んだ「初めてのかなしみ」には、

わたしにも明るみにだされている事がら

 と「事がら」ということばが出てきた。
 どちらの場合も「役」「事」で「意味」は通じる。しかし、江代は「役がら」「事がら」と「がら」をひらがなにしながら書いている。
 何かしら、「動詞」をむりやり「名詞化」しているように感じる。「動詞」を隠そうとしているようにも感じられる。
 「事がら」を「動詞化」するのは難しいが、「役がら」なら「演じる」と「動詞化」できるかもしれない。「役」ということばをつかって「動詞化」するなら「役をになう」とも言い換えることができるかもしれない。
 この「動詞」をかくしたことば(名詞)は、「動詞」を「内部に閉じ込めていることば」と言い直すと、また別な視点から「粘着力」を探ることができるかもしれない。
 そういう「予感」がする。
 「名詞」の内部に隠れている「動詞」を探してみたいが、私は、あまり江代の詩を読んでいないので、いまはまだ書けないが。

現代詩手帖 2016年 05 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

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