原子修「バラード 憲法の木」(「極光」10、2008年09月20日発行)
原子修「バラード 憲法の木」はタイトルどおりの詩である。多くのひとが想像するだろうことをそのまま書いている。つまり、戦争に傷つき、その反省から生まれた「第九条」を掲げる憲法を一本の木になぞらえて歌っている。バラードとあるように、それはたしかに「歌」になっている。
地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの
黒くて固くてちいさな木の実
でも
その内部でいのちの火はほろほろと焚いている
ひと粒の小さな木の実
ぼくの心のなかの
すぐには忘れられない焼け跡の
まだ戦火のほとぼりさめやらぬ土に
ぼくがそっと埋めてあげた
ひと粒の実
ぼくの心のなかの
たやすくは忘れられない焼け跡で
飢えにあえぐぼくの
人知れずながす涙のしずくをのんで
かすかな黄金の芽がほころび
じっと見守るぼくのまなざしの光を吸って
ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき
やがて すっくりと立ちあがった一本の幼い木
この詩には何度も「ぼく」が登場する。けれどその「ぼく」はきのう読んだ渡辺玄英の「ぼく」のようには増殖はしない。「ぼく」と繰り返すのは、「ぼく」にもどるためであって、「ぼく」から出て行くためではない。「ぼく」は絶対にかわならない。
かわること--ことばを通してかわっていくことが、「文学」の姿だとすれば、たぶん原子の書いていることばは「文学」ではない。「現代文学」「現代詩」ではない。
しかし、たぶん、そういう見方は一面的すぎる。
原子はかわらない。同じ「ぼく」でありつづけ、その同じ「ぼく」を起点にして、「木」がかわっていく。
涙をのんで、黄金の芽を吹き、さみどりの茎になり、まみどりの双葉になる。その変化にすべてをかける「ぼく」がいる。「木」をみつめる「ぼく」はかわらないが、そのまなざしのなかで「木」がかわる。--そのとき、実は、「ぼく」は育っている。
それはゆっくりであるから、たぶん、目には見えない。目には見えないゆっくりしたスピードで、融合する。「ぼく」と「木」は区別がつかなくなる。「ぼく」ではなく、「対象」になってしまうのだ。「ぼく」でありつづけることが「ぼく」ではなくなる唯一の方法なのである。原にとっては。
これは「愛」のひとつの形である。
「ぼくがそっと埋めてあげた」の「あげた」。その、不思議な響が、私は、この詩では特に好きだ。そっと身を引いた「距離」が好きである。
「ぼく」はあくまで、何かに対して一歩ひいている。「ぼく」の領域にとどまり、踏み出さない。踏み出して、対象をつくりかえようとはしない。自分の思うままにしようとはしない。ただ、それが、それ自身の力で育っていくのをみつめている。
みつめながら「さみどり」を学ぶ、「まみどり」を学ぶ。みどりには、そんなふうに変化があることを知る。それは「ぼく」から出て行っていないように見えて、ほんとうは「ぼく」の大きな変化だ。
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