goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『通勤電車でよむ詩集』(2)

2009-10-28 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『通勤電車でよむ詩集』(2)(NHK 出版、2009年09月10日発行)

 小池の選んでいる詩はどれもとても美しい。いろいろなことを考えさせてくれる。そして、そのいろいろな考えは、私と小池では重ならない。その重ならないことが楽しい。ひとの考えとぴったり重なり、そのことがうれしいときもあるが、逆に重ならないことがうれしいこともある。その重ならないことのなかに、私の知らない何かがある。その知らない何かについて、私は、いま何かを語ることができない。けれど、それはいつかきっとわかる日が来る。そんなことを思う。金時鐘訳、趙明熙「春の芝生の上に」。小池は2連目、最後の2行にに反応している。

「ウエー」と地が泣き「ウエー」と空も泣くので
いずれが母上なのか、どだいわたしには見分けがつかない。

韓国版・森進一の「おふくろさん」。しかしスケールの大きさでは、韓国にかないません。「オンマー」と声をあげれば、「ウエー」と地が泣く、空が泣く。「どだい」という日本語、こんなにも力強く頼もしいものだったのか。金時鐘の再訳による一篇。

 私は「どだい」がわからない。私は日常的には「どだい」ということばをつかわない。どうつかっていいか、はっきりとはわからない。だから反応のしようがない。私は小池の解説を読むまで、最後の行に「どだい」ということばがあることさえ読み落としていた。目というものはずぼらなものだと思う。きっと自分の知っているものだけしか認識しないのだろう。(網膜剥離、手術を体験して、半分黄濁した目で世界を見ていると、知らず知らず、そんなことに気づかされた。知らないものは視界からこぼれてゆく。)
 私は2連目よりも1連目の方が好きだ。

わたしが芝生の上ではねまわって遊ぶとき 
この様子を母上が見つめてくださるさることはできまいか。
おさな児が母の胸乳(むなち)に抱かれて甘えるように
わたしがこの芝生の上でじゃれてまわるとき
この様子を母上がまこと見てくださることはできまいか。

 「まこと」に私のこころは震える。
 「まこと」は「現実に」ということかもしれないけれど、その「現実」をとおりこして、こどもを見つめるということのなかに、「母のまこと」、母の真の姿があると感じる。文脈の「意味」を逸脱して、別の「意味」がまぎれこむ。そして、わたしが感じるのは、文脈上の意味ではなく、ふいに紛れ込んだ別の意味である。
 書かれていない--けれど、その書かれていないものを読む。これは、たぶん、目がかってに「知っている」(あるいは知りたいと思っている)ものを選んでしまうということと関係があるかもしれない。
 目は、知っているものだけではなく、知りたいと思っているものをも選んでしまう。
 たぶん、そういう働きがあるから、私たちは道に迷ったりもする。ほんとうは違っているのに、そこにあるポストを目印のポストと思ったりする。あるいはブラインドデートなら、ほんとうは違うのに別の理想のタイプの人間をデートの相手だと思い声をかける--というような具合に。
 そして、たぶん、そういう「迷い」(勘違い)のなかに、自覚できない「真実」があるのだと私はひそかに思っている。

 感想が、どんどんずれていってしまう。

 私は「どだい」には何も感じない。けれど、小池がそのことばに感動したということは、そこには確かに何かがあるのだ。私の知らない何かが。そして、小池のことばに導かれて、そのことを知る読者も多いだろう。私も、いつか、その「どだい」の力を感じることができるだろう。そして、感じたとき、きっと小池の書いた、この短い文章を思い出すだろうと思った。



 小池の感想とは別に、すこし思いついたことを書いておく。宮沢賢治「眼にて云ふ」。死の直前、血を吐いているのでことばを言うことができない。だから目で会話する、という内容の詩である。その8-10行目。

もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るのですな

 「あんなに」が不思議だ。「あんなに」はどのことばを修飾しているのだろう。どのことばと結びついているのだろう。「あんなにもりあがって」だろうか。「あんなに湧くやうに」だろうか。それとも「あんなにきれいな風」だろうか。
 わからない。
 わからないまま、すべてがいっぺんに押し寄せてくる。その一気に世界が変わる感じが「もりあがって」「湧く」という運動のなかで輝く。
 「あんなに」が行の冒頭ではなく、どれかのことばの直前にあれば、「意味」ははっきりするだろうけれど、きっと印象は違ってくる。世界が一気に溢れる感じがしないだろうと思う。
 「わからない」ことが、不思議なことに「わかる」に近い。
 詩というのは、そういう部分で動いている。

小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小池昌代『通勤電車でよむ詩集』 | トップ | 長嶋南子『猫笑う』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

その他(音楽、小説etc)」カテゴリの最新記事