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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子「握り飯」

2019-11-03 09:54:46 | 詩(雑誌・同人誌)
小柳玲子「握り飯」(「みらいらん」4、2019年07月15日発行)

 小柳玲子はどんな詩人なのか。思い出せそうで、思い出せない。私は、こいう言い方(分類の仕方?)は顰蹙を買うだろうと承知で書くのだが、「おばさんの詩」が好きである。代表は、そうだなあ、長嶋南子か。年齢は知らないから、ほんとうは「おばさん」ではなく「お嬢さん」集団なのかもしれないが、私の意識の中で「おばさん詩人」というものがいて、そのひとたちの詩の感想を「おばさんパレード」というタイトルで一冊にしてみたいという夢がある。その「おばさんパレード」から、実は、小柳は抜け落ちていた。どんなふうにかというと……「おばさま詩」という感じで。高橋順子も、どちらかといえば「おばさま詩」。
 そういう目で見ると、小柳玲子「握り飯」は、「おばさま詩」から「おばさん詩」へ動き始めた感じがする。いや、「おばさん詩」を書こうとしたが、やっぱり「おばさま詩」になってしまったという感じか。

部屋に入ると
彼がいる
あの人だ と思ったが
誰だったか
ちょっと思い出せない
   まあいいや 誰にしてもそう変わりゃしない
「おにぎり食べるけど欲しい」と聞くと
「いらない」と言った
そうかそうか あんたはもう要らない人だったっけ
よかった
見るまでもなく
握り飯は一個しかないのだ
なんとなくほっとして食べ始める

 私は、こういう感覚が好きだ。「あの人」はもう死んでいないのだろう。でも思い出す。思い出して、ちょっと声をかけてみるが、そうだ、いないんだったと思うのだが、その「確認の手立て」が「握り飯は一個」の「一個」なのだ。この生活感覚がいいなあ。そして、いないんだ、と納得した後「ほっとして」というのがとてもいい。なぜ、ほっとした? 二人で食べていたときは「ぼくは、そっちのおに握り飯の方がいい」とかなんとか、どうでもいいことで「争い」があったからだ。「争い」というまでもないけれど、ちょっとしためんどうくささ、ちょっとした我慢のようなもの、譲歩のようなもの。そういうことを、もうしなくてもいい。だから「ほっとする」。そして「ほっとした」あと、こんどは納得できないものが押し寄せてくる。「寂しさ」という感情が。
 それが二連目で書かれるのだけれど、二連目に行くまでの「おばさんぶり」が私は好きだ。
 問題の二連目。

西側のガラス窓に寄りかかって
あの人は私を見ている
あの人は少し笑っているようでもあったが
東側の入り口近くにいる私には
はっきりしない
「きょうは一日 どうだった」と私は聞いたが
答えはなかった
それはあたりまえなんだ
彼はどこにもいないのだし
私はただ誰でもない人でもいいので
喋ってみたかったのだ
そうやって夜は深くなっていくのだった

 ずいぶんと「礼儀正しく」なってしまう。と、書くのは失礼なことなのかもしれないけれど、この「礼儀正しさ」は少しおもしろくない。一連目の「まあいいや」という乱暴さ、「肉体のむき出し」感がないと、「しんみり」してしまう。
 いや、しんみりしたことを書いているのだから、これでいいのだが。
 そうはわかっていても、やっぱり「おばさん」の暴力が私は好きなのだ。
 この「しんみり」感なら、たぶん、妻をなくした男も書いてしまう。「西側」と「東側」の対比、「ガラス窓」と「入り口」の対比は、それが事実であるとしても、あまりにも「明確」過ぎて「具体性」が見えない。「現実」のもっている「濁り」が見えない。こういう書き方は、ちょっと男っぽい。(私には、表現・認識の男女差の感覚がまだまだ残っているので、どうしてもそう感じてしまう。)小柳が書いている「明確な具体性」が「不明瞭な生々しさ」にかわると「おばさん詩」になる。
 私の勝手な「分類」だけれどね。

 なぜ「おばさん詩」にこだわるかというと、男には「おっさん詩」というものがないからだ。(おばさんの対極は、おじさんではおっさんだと私は思っている。)細田傳造が「おっさん詩」を書けるかなあと思うけれど、男はどうしても「おじさん詩」になってしまう。あるいはさらに気取って「おじさま詩」か。男は、どこかで「ことばの可能性」を半分以上捨ててしまっている。そのことを気づかせてくれるのが「おばさん詩」なのだ。だからこそ、「おばさん」にはパレード(デモ行進でもいいが)して、ことばの世界を変えてもらいたいなあと私は願っている。
 自分にできないことは、他人に頼むのである、私は。





*

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