阿部日奈子「歯を抜く」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)
阿部日奈子「歯を抜く」は、歯の金冠を子供に残して死んでいった母のことを本で読んだあと、歯を抜く夢をみる。夢のなかでは「私(阿部、と仮定しておく)」は中学生。授業中にこっそり歯を抜く。休み時間に男の子たちに出会い、”Hi, boys! ”と声をかける。そのときは歯がふたたび生え揃っている。男の子たちは、「恐怖で固まってしまいました。」
そのあと、
夢はここまでですが、どう判断なさいます? 歯が欠け落ちる夢の分析例ならいくつか知っていますが、自ら歯を抜く場合はどうなんでしょう。意趣晴らし、とまでは言いませんが、一矢報いたい気持ちが夢の底にわだかまっているのはたしかです。大きく目を見開いて唇をわなわな震わせている男の子たちの一団に、私から去っていったRやVがいたことを、私は見逃しませんでした。私の知らない少年期の姿だったけれど、間違うわけがありません、人を値踏みするようなこすっからい一瞥は、絶対にRやVのものでしたから。
うーん、と私はうなってしまった。夢だから何が起きてもいい。夢の分析だって、どんなふうにしようとかまわない、と思う。思うのだが、その「分析」を支えている(?)何かに、奇妙な「肉体の手触り」のようなものがあって、うーん、とうなるのである。
中学生。そこで出会うのは中学生。きっとRやVは同級生(あるいは同じ中学の生徒)ではないはず。それなのに、そこにRやVを見てしまう。これは論理的におかしい。夢なのだから論理的におかしくてもいいのだが、この論理的なおかしさのなかに、阿部がいる(人間がいる)と感じるのである。
RやVに出会ったのは、中学生時代ではない。そして、RやVは阿部から去っていった。RやVについての阿部の認識は、ふたりとも「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」をもっていること。そんなふうに人を見る目つき。それを阿部は忘れることがない。その「一瞥」を見落とすことはない。見間違えるはずはない。そして、そういう「一瞥」に出会うたびに、阿部はRやVを思い出すのだ。
何かを見て、何かを思い出す。何かを見るたびに、「肉体」のなかから、その何かを見たときの記憶が甦る。そしてその何かが「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」であるとき、それは「名詞」ではない。「一瞥」というのは「名詞」に分類されるけれど、実際は「名詞」ではない。「一瞥」の奥に動いている「人を値踏みする」という「動き」、「こすっからい」と呼ばれる「動き」、「動いている」何かの「動き」そのものが思い出されるのだ。
「一瞥」(名詞)を「一瞥する」という「動詞」にもどして(?)、見つめなおすといいのだろう。(名詞を動詞の形で動かすと、そこに起きていることがよりくっきりとわかるときがあるが、この詩も、そのひとつだと私は思う。)
「人を値踏みする」も「こすっからい」も「肉体の動き」ではなく、「精神の動き」というふうにとらえるのが一般的かもしれないが、それが「一瞥」ということばと結びつくと、その瞬間の「目の動き」と区別がつかない。「ひとつ」のものになっている。「一瞥する」という動詞の中には、目の動きと精神(情念/感情)の動きが重なっている。
というよりも。あるいは、もう一度言いなおすと……。
ある瞬間、目が動く。それはとても微妙なものだが、その微妙な動きが、くっきりとつたわってくる。その微妙な動きを、あとで「人を値踏みするような」とか「こすっからい」とか呼ぶのであって、最初から「人を値踏みするような」とか「こすっからい」という便利な(?)表現があるわけではない。「一瞥」と「人を値踏みするようなこすっからい」があまりにも強烈に結びついているために、目の動きと同時に動いているように見えるが、そうではない。目が動いて、そのあと、つまり目がとらえたものに刺戟されて精神や感情が視線の動きを追いかけるように動き、それが目の表情になる。「人を値踏みするようなこすっからい」という強烈なことばになる。
そのときの「強烈な結びつき」が「結びつき」のまま「強烈に」甦る、その「強烈」な感じ、「肉体」のなかで起きている「強烈」な動きが、うーん、とうならせる。
「一瞥」のなかに「一瞥する」という動詞があり、動詞だから、それは直接「肉体」にまで響いてくる。「動詞」が「肉体」に触ってくる。あるいは、障ってくるので、それを撥ねつけるようにしてことばが動く。阿部の「肉体」そのものが反応する。
あ、何が書いてあるかわからない?
そうだろうなあ。私は書きながらだんだんわからなくなってきている。
わからないのだけれど、そうか、何かを思い出すのは、そこに「強烈」な「肉体」の印象があるからなんだなあ。その「肉体」の印象を、ひとは「間違えない」ものなんだなあと思う。
夢にでてきた中学時代の男の子にRやVを思い出すというのは「間違い」なのだけれど、中学生の表情に「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」が見えたなら、それは絶対にRやVでなければならない。「時間」や「場所」は無限にあるが(複数の時間、複数の場所を考えることができるが)、「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」という「肉体」そのものは、人間がひとりに限定される。ひとりの人間の「肉体」の上にあらわれてくるものである。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」というものを複数の人間が投げつけたとしても、それは「RやV」という「ひとり」なのだ。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」を阿部に向ける男は、すべて「RやV」という「ひとり」になってしまう。いや阿部が「ひとり」にしてしまうといった方がいいかもしれない。その「なり方/してしまう仕方」、阿部の肉体のなかでの対象の変化の仕方、それは「間違い」がない。阿部は、間違いなく、「RやV」を思い出す。
「間違い」と「間違いない」が、奇妙に、強烈に結びついて、そこに阿部という人間を、その肉体として存在している。
「一矢報いたい(気持ち)」に焦点を当てて読むと、また違った読み方になるかもしれないが、(情意の詩になるかもしれないが)、私は「一瞥(名詞)/一瞥する(動詞)」と「間違い/間違えない」のなかに動いている「肉体」の詩として読むのだ。
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