アリエル・ブロメン監督「THE ICEMAN 氷の処刑人」(★★)
監督 アリエル・ブロメン 出演 マイケル・シャノン、ウィノナ・ライダー、レイ・リオッタ
最近、どうも映画がおもしろくない。目の状態かよくないので、影像にどっぷりひたることができないせいかもしれない。感想を書かないままの映画が何本もある。この作品も書こうかどうしようか迷ったのだが……。少し気になるところがあったので、書くことにする。
「THE ICEMAN 氷の処刑人」は実話だという。どうもすっきりしない感じがしないのだが、実話とはもともとそういうものかもしれない。主人公は人殺し。けれども非常に家族思い。非常と愛情の両極端を生きている。
見どころはふたつある。ひとつは主人公のマイケル・シャノンの演技。怒ると感情をおさえきれなくなるのだが、顔には怒りを出さない。行動が乱暴になる。その、なんともいえない無表情がいい。隙がないのである。どこをほめていいのか、適当なことばがみつからないのだが、身長が高くて、正比例するように顔が大きい。その大きな顔の中の目が、非情に冷たい--というのは映画の中の台詞であって、もちろん目は冷たい印象なのだが、その冷たさを際立たせているのが無表情である。まるで、殺すということにおいて顔は何の働きもしないと言っているようである。実際、殺しの仕事は顔ではなく手でやる。ナイフを使うにしろ銃をつかうにしろ、それは手でやるのであって、顔ではないからね。
とはいうものの。じゅあ、どうやって相手を油断させるか。冷酷な顔のままだったら相手が警戒する。身構える。不意打ちだけでは殺しは難しい。
2人目の殺しのとき。「金をやるから殺してみろ」と言われてホームレスを殺すシーン。近づいていっていきなり銃で殺すのではなく、話をして、「やっぱりたばこをくれ」と言って、相手が近づいてきた瞬間に体に銃を押しつけて殺すところなど、すごいなあ、顔ではなく「態度」出会いを一瞬油断させる。その微妙な変化をマイケル・シャノンは「肉体全体」で表現する。「顔」では演技しない。
ディスコで青酸化合物をつかって殺したあと、そこを去るとき知人と出会う。どうやってその場を去るか。かなり緊張した場面なのだが、相変わらず顔はいつも通りで(いつも通りでないと発覚するからね、これは当然なのだが)、態度の微妙な動きで「あせり」を最小限に浮き立たせる。思わずスクリーンに吸い込まれてしまう。これは、なかなかすごい。
もうひとつは、カメラ。全体の色調。現代ではなくて、年代はちょっと忘れてしまったがポケットベルの時代。30-40年くらい前になるのかなあ。風景が全体的に「重い」というか、浮ついた「軽さ」がない。そして、スピード感がない。マイケル・シャノンの演技とも関係してくるのだが、殺しなどというものは人に見られないようにすばやくやる必要がある。そのため、いまの映画では殺しはものすごいスピードである。アクションがオーバーである。速い分だけアクションを大きくしないと「見えない」からである。いまの映画は、カメラも角度を変えて、いくつものシーンから殺しの瞬間を再現して見せる。ところがこの映画は、そういうことをしない。あくまで人間の肉体の動きそのものをとる。言い換えると、カメラが演技をしない。演技を役者に任せてしまって、演技ではなく「場」を撮る。
家族を侮辱されて、マイケル・シャノンが怒り、侮辱した男の車を追いかけるカーアクション、最後にマイケル・シャノンがつかまるときのパトカーのアクション(?)も、それは「場」に演技をさせているのであって、カメラは演技をしない。
これは、これは……。なつかしいというか、なんというか。久々に映画を見たという気持ちににはなる。描かれる時代が古いからではなく、映画の撮り方が古いので、古い時代を思い出すのである。ほほう、と感心する。
でもねえ。こんなことに感心するのはなんだかマニアック。と、映画を見ながら感じてしまうのであった。もっとかっこいい、強烈で残酷な殺しのシーンを見たかったのに、という変な欲求不満が残るのである。いまの映画の過激さに私が染まっているということもあるのだろうけれど。そして、いまの映画に染まっているからこそ、この映画のクラシックな撮り方に感心もするのだが。
なんだか、私の感想は矛盾しているが、こういう矛盾した感想を引き出すのは、この映画にはかなり複雑なパワーがあるということかもしれないなあ。★4個にしようかなあ。まようなあ。
(2014年01月12日、KBCシネマ1)
監督 アリエル・ブロメン 出演 マイケル・シャノン、ウィノナ・ライダー、レイ・リオッタ
最近、どうも映画がおもしろくない。目の状態かよくないので、影像にどっぷりひたることができないせいかもしれない。感想を書かないままの映画が何本もある。この作品も書こうかどうしようか迷ったのだが……。少し気になるところがあったので、書くことにする。
「THE ICEMAN 氷の処刑人」は実話だという。どうもすっきりしない感じがしないのだが、実話とはもともとそういうものかもしれない。主人公は人殺し。けれども非常に家族思い。非常と愛情の両極端を生きている。
見どころはふたつある。ひとつは主人公のマイケル・シャノンの演技。怒ると感情をおさえきれなくなるのだが、顔には怒りを出さない。行動が乱暴になる。その、なんともいえない無表情がいい。隙がないのである。どこをほめていいのか、適当なことばがみつからないのだが、身長が高くて、正比例するように顔が大きい。その大きな顔の中の目が、非情に冷たい--というのは映画の中の台詞であって、もちろん目は冷たい印象なのだが、その冷たさを際立たせているのが無表情である。まるで、殺すということにおいて顔は何の働きもしないと言っているようである。実際、殺しの仕事は顔ではなく手でやる。ナイフを使うにしろ銃をつかうにしろ、それは手でやるのであって、顔ではないからね。
とはいうものの。じゅあ、どうやって相手を油断させるか。冷酷な顔のままだったら相手が警戒する。身構える。不意打ちだけでは殺しは難しい。
2人目の殺しのとき。「金をやるから殺してみろ」と言われてホームレスを殺すシーン。近づいていっていきなり銃で殺すのではなく、話をして、「やっぱりたばこをくれ」と言って、相手が近づいてきた瞬間に体に銃を押しつけて殺すところなど、すごいなあ、顔ではなく「態度」出会いを一瞬油断させる。その微妙な変化をマイケル・シャノンは「肉体全体」で表現する。「顔」では演技しない。
ディスコで青酸化合物をつかって殺したあと、そこを去るとき知人と出会う。どうやってその場を去るか。かなり緊張した場面なのだが、相変わらず顔はいつも通りで(いつも通りでないと発覚するからね、これは当然なのだが)、態度の微妙な動きで「あせり」を最小限に浮き立たせる。思わずスクリーンに吸い込まれてしまう。これは、なかなかすごい。
もうひとつは、カメラ。全体の色調。現代ではなくて、年代はちょっと忘れてしまったがポケットベルの時代。30-40年くらい前になるのかなあ。風景が全体的に「重い」というか、浮ついた「軽さ」がない。そして、スピード感がない。マイケル・シャノンの演技とも関係してくるのだが、殺しなどというものは人に見られないようにすばやくやる必要がある。そのため、いまの映画では殺しはものすごいスピードである。アクションがオーバーである。速い分だけアクションを大きくしないと「見えない」からである。いまの映画は、カメラも角度を変えて、いくつものシーンから殺しの瞬間を再現して見せる。ところがこの映画は、そういうことをしない。あくまで人間の肉体の動きそのものをとる。言い換えると、カメラが演技をしない。演技を役者に任せてしまって、演技ではなく「場」を撮る。
家族を侮辱されて、マイケル・シャノンが怒り、侮辱した男の車を追いかけるカーアクション、最後にマイケル・シャノンがつかまるときのパトカーのアクション(?)も、それは「場」に演技をさせているのであって、カメラは演技をしない。
これは、これは……。なつかしいというか、なんというか。久々に映画を見たという気持ちににはなる。描かれる時代が古いからではなく、映画の撮り方が古いので、古い時代を思い出すのである。ほほう、と感心する。
でもねえ。こんなことに感心するのはなんだかマニアック。と、映画を見ながら感じてしまうのであった。もっとかっこいい、強烈で残酷な殺しのシーンを見たかったのに、という変な欲求不満が残るのである。いまの映画の過激さに私が染まっているということもあるのだろうけれど。そして、いまの映画に染まっているからこそ、この映画のクラシックな撮り方に感心もするのだが。
なんだか、私の感想は矛盾しているが、こういう矛盾した感想を引き出すのは、この映画にはかなり複雑なパワーがあるということかもしれないなあ。★4個にしようかなあ。まようなあ。
(2014年01月12日、KBCシネマ1)
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