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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」

2010-03-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」(「スーハ!」6、2010年02月25日発行)

 佐藤恵「カメラ・オブスキュラ」は文字通り、カメラ・オブスキュラを描いている。暗い部屋のなかで見るはじめての世界。その世界は知っている世界だけれど、知っている世界と違っている。

ひかりは
ぬるい吐息のように吹き込んできた。
伏せていた影が黒蝶となって舞い交い、眩しさに追いつめられた姿で壁に展翅される。
わたしたちは暗箱のすみに身を寄せちいさく膝を抱いて
投射される逆さの校庭や家並を見ていた。
どこかで「あけて!あけて!」と声がする。

 小さな穴から入ってきた光が、逆さまの映像を映す。その現象。それを「ひかりは/ぬるい吐息」と呼ぶとき、それはもう「光」ではない。物理の、あるいは光学の現象ではない。「肉体」そのものの現象、「肉体」とカメラ・オブスキュラが溶け合っている。暗い部屋、暗い箱のなかに「わたしたち」はいるのだが、その暗い部屋はそのまま「肉体」であり、その「肉体」のなかに「ひかりは/ぬるい吐息」となって入ってきて、「肉体」のなかに逆さまの映像を繰り広げる。
 そして、そのとき、

どこかで「あけて!あけて!」と声がする。

 この「声」は、どこに存在するのか。どこから発せられるのか。
 暗い部屋にいる「わたしたち」のだれかが発した声なのか。それとも、暗い部屋の壁に映しだされた「家並」のなかから聞こえるのか。映像をつたえるだけのカメラ・オブスキュラ。それなのに、もし、「家並」のなかで発せられる「声」が聞こえるとしたら、それはどういうことだろう。
 映像は「音」をもっている。
 ある映像に触れた瞬間、音楽が聞こえる--そういう体験は誰もがすることだけれど、これは、どういうことなのだろう。「音」は発せられてはいない。けれど、「音」を聞いてしまう。「肉体」のなかで、「音」が生まれているのだ。
 その「音」は「家並」から聞こえるようであって、実は、暗い部屋にいる「わたしたち」の「肉体」が発したものなのだ。それを佐藤は聞いている。「わたし」の「肉体」であると同時に「わたしたち」の「肉体」、共有される「肉体」の「声」として。
 ここから世界は逆転する。あるいは、区別がなくなる。暗い部屋、暗い箱は、外の世界とうちの世界を区切る(区別する)「壁」をもっているはずだが、その壁は「暗い」ゆえに、見えない--つまり「視力」のなかで消滅し、その消滅に合わせ、また何かが消えていく。

聞き耳を立ててひかる家々の窓は
それぞれの中庭の花を映すだけで鏡面をかたく張り窓枠をふるわせもしなかった。

 「わたしたち」の「肉体」は「あけて!あけて!」と叫んでいる。それは「外へ出して」と同じ意味をもっているが、その「声」を「家々」は聞かない。拒絶している。
 「わたしたち」はカメラ・オブスキュラの箱のなかで、外の世界を隠れてのぞいているのではなく、外の世界、家々が「わたしたち」の「肉体」、その「内部の声」を、「わたしたち」を暗い部屋に閉じ込めることで聞いているのだ。拒絶しながら--つまり、それがどんな「声」であろうとけっして助けたりはしない冷徹な残酷さ(ぬるい吐息とは対極的なもの)、あるいは潔癖な美しさ(花を映すだけの鏡)で。

外ではコスモスが細い頸をひねり
空は隅から青く焼けていった。
花壇の向こうでささやき声に湿った耳がしだいに染まり
うつむいたまま頷く一瞬が、砂絵のような粗さで映し出される。
わたしたちは声も出さずに目を凝らして
あらゆるものを見た。

 「あらゆるもの」のなかには「わたしたち」が含まれる。というより、「見た」もの、「見えるもの」は、結局、「外」ではなく、「わたしたち」の「内部」を含んでいるのだ。だから、「声も出さず」は「声も出せず」でもある。
 緊密な「外」と「内」、「世界」と「肉体」の融合が、ていねいなことばの動きで書かれた詩だ。


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