goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「チェンジリング」(★★★★★)

2009-02-21 11:07:07 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコヴィッチ

 どのシーンもすばらしいが、特に最後の方に突然あらわれる少年の訊問のシーンがいい。誘拐され、行方不明になっていた少年(アンジェリーナ・ジョリーの息子とは別人)が、「なぜ、いままで名乗り出なかったのか」と問われて答える。「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と。この瞬間、子供から親への愛が、この映画ではじめて描かれる。そして、親から子への愛が固く結び合い、その愛が希望に変わる。
 アンジェリーナ・ジョリーは息子を愛している。だから、必死になって探している。死んだという確証がないかぎり探しつづける。帰って来た子供は同じ場所で監禁されていた別の子供である。しかし、その子供が「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と語るのを聞いたとき、それは他人の子供の声ではなく、彼女にとっては自分の子供の声だった。ウォルターは、母のことを思って、名乗り出ることを恐れ、どこかに必ず生きている。遠く離れて、互いに相手のことを思い生きている、そう思うとき、絶望が希望にかわる。
 この映画は、単に誘拐された子供を探す母の愛というよりも、希望を取り戻す映画なのだ。あらゆるひとが希望を取り戻そうと生きている。
 腐敗した警察。人権を無視した精神科病院。だれもが希望を失っている。
 そうした時代を背景に、もっとも絶望的な母が強い信念で息子を探しつづける。警察の暴力、精神科医の暴力と闘う。素手で闘う。悲劇の構造が明らかになればなるほど、そして警察の暴力や精神科医の暴力が事実として告白され、批判されればされるほど、その一方で、愛する息子の死は確定的なものという印象が深まる。事実がわかれば、他人(警察の暴力を告発しているジョン・マルコヴィッチや、映画を見ている観客)は、事件はこれで終わりという印象を抱く。実際、誘拐犯が逮捕され、事件を隠蔽しようとした担当警部が処分されたとき、これでこの映画は終り、という印象を私は持った。ジョン・マルコヴィッチは警察の不正が明らかになったあとは映画には登場しなくなるのも、この映画はここで終わりという印象を強くする。ふつうなら、警察の処分で事件そのもののカタルシスがやってくるからである。アンジェリーナ・ジョリーが闘ってきた相手が消えるからである。ところが、犯人の絞首刑のシーンがあり……と映画はつづいていく。そして、そのあとに冒頭に書いた少年のシーンがある。 
 そのとき、私はようやく気づいたのである。
 子供を誘拐された母親の事件、誘拐された子供の事件は、事件の構造がわかり、その構造を隠していたものがわかり、処分されれば終わりではないのだ。犯人がつかまり、処分され、怠慢だった警部が処分されれば終わりではないのだ。事件というのはいつまでもいつまでもつづいていくのである。母親にとって事件は息子と再会しないかぎり終わらないのだ。解決したことにならないのだ。それは息子にとっても同じなのだ。

 この映画は、一見、とても淡々としている。映像に抑制がきいているし、警察や精神科医の追及も、意外とさらりと描いている。感情が高ぶる、その感情によって出演者と観客が一体になるのを回避するかのように、感情の高ぶりが頂点に達する前に、ぱっと画面が切り替わる。
 それには目的があったのだ。
 クリント・イーストウッドは警察や精神科医の暴力、市民を虐待する暴力も追及しているが、彼が描きたかったのはそれだけではないのだ。警察や精神科医の暴力、腐敗、その構造を描いた映画なら、これまでにもある。それを追及することで、カタルシスに達する映画はこれまでもある。
 イーストウッドは、それだけでは事件は解決したことにならない--そうことを主張したくてこの映画を撮ったのだと思う。事件は被害者にとっては永遠につづくのである。その永遠に続く感じを忘れてはならない。被害者の気持ちを、表面的なカタルシス(警部の処分、精神科医の追及、一種の勝訴)で分断してはならない。そういうカタルシスを描いてしまえば、事件が解決してしまったかのような錯覚を与えてしまう。だから、そういう印象を抑えるようにして、ふつうの映画ならクライマックスである法廷のシーンもたんたんと処理しているのだ。
 この姿勢には、胸を打たれる。イーストウッドの深い愛、被害者への深い思いやりにこころを打たれる。
 出演者にも、こういう姿勢はきちんと伝わっているのだろう。どのシーンもとても落ち着いている。深みがある。感情の暴走で映像を輝かせるというようなことをしない。ひとつのシーンは別のいくつものシーンと関連しており、それは永遠に途切れない、という印象を与えるように工夫されている。

 私たちの国には、北朝鮮に拉致された人がいる。その家族がいる。その人たちのことを思い出す。被害者と家族が再会するまで、事件は終わらない。


許されざる者 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『田村隆一全詩集』を読む(2) | トップ | 滝悦子『薔薇の耳のラバ』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事