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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マイケル・ホフマン監督「モネ・ゲーム」(★)

2013-05-19 21:52:02 | 映画
監督 マイケル・ホフマン 出演 コリン・ファース、キャメロン・ディアス、スタンリー・トゥッチ

 最近、映画がまったくおもしろくない。私の目の状態がよくなくて十分楽しめないということもあるのだろうけれど、映画は見たけれど感想を書く気持ちになれない。しようがないので、なぜおもしろくないのか、ちょっと考えてみることにした
 「モネ・ゲーム」は脚本がジョエル・コーエン、イーサン・コーエン。私の大好きな監督(脚本家)だ。とても楽しみに見にいったのだが、
 うーん。
 映画はやっぱり映像だね。おもしろい映像がないと、まったくひきつけられない。たとえばコーエン兄弟の「ノー・カントリー」。男が首を絞められて殺されるシーンがある。苦しくて足でリノリウムの床を必死でこする。その足でこすった床に、靴の黒い引っ掻き傷が花のように開く。おおっ、これが撮りたくてこんな殺し方をしたのか。うなってしまうねえ。
 そういうシーンが、この映画にはまったくない。そもそも映像というものが、この映画には欠けている。どのシーンもふやけている。構図がしっかりしていない。映像に遠近感がない。ただ、演技している状態を撮っているだけ。(「ノー・カントリー」のリノリウムの床の上の傷だって、構図が変だったら映像に昇華しない。そこにあるものを映せばいいというのではない。)
 これではね。
 イギリスの国民性のおかしなところは、「個人主義」の尊重。どんなに好奇心をそそられることでも、相手が自分から言わないかぎりは「知らない」でとおしてしまうところ。たとえ見ててでも、ことばで聞かないかぎりは「知らない」と言い張るところ。「知らない」けれど、聞きかじったことからひとはいろいろ想像はする。その想像はときにはまったくの勘違いということもある。変なことは何もないのに、変なことを想像してしまう。「イギリス個人主義」が引き起こすドタバタだね。
 そういうばかみたいな(?)感覚をコーエン兄弟はからかって脚本にしている。ホテルマンとコリン・ファースの絡みに、それが何度も出てくる。ホテルマンはもともと客の秘密を守らないといけない、プライバシーに踏み込んではいけないという職業なので、そのおかしさが増幅されるわけだが……。
 でもねえ。脚本段階では、まあ、十分におかしいのだろうけれど、映画になってしまうとおかしくないことがある。というより、映像が「ことば」を追ってしまうと、おもしろくなくなる。話している人と、聞いている人の、映像に占めるバランスがちぐはぐだと、おもしろさが台無しになる。--ちょっとうまく言えないが、そういうシーンでは、役者が演技をするのではなく、カメラが演技をしないといけない。変な会話がやりとりされるとき、あっ、変、という感じを役者が表情で見せるのではなく、カメラ自身が役者からそういう表情を引き出さないといけない。フレームの問題だね。フレームを固定して、そこで役者に演技をさせると表情がしつこくなりすぎる。役者は演技などしなくていい。カメラが「登場人物」の視線になって役者をつかみとればいい。カメラが登場人物の「視線」になりきれていない。それだ、笑いが笑いになりきれない。
 カメラの構え方次第では、すごく面白くなるはずのシーンが、とてもくだらない「ことば」の行き違いになる。イギリス人をつかわずに、アメリカを舞台に、コーエン兄弟が撮れば、ずいぶん違ったものになっただろうになあ。
 ごちゃごちゃ書いたが、私の書いていることはわかりにくいかも。一か所だけ、ともおもしろいシーンがあったので、それと比較するとわかるかもしれない。
 コリン・ファースが紛れ込んだ部屋。おばさんがひとりで泊まっている。芝居の切符をコンシェルジェに頼む。部屋の入り口でコンシェルジェと応対し、ベッドルームへひきあげるとき、一瞬、止まる。「あ、忍び込んだのがみつかってしまった」とコリン・ファースは思う。ところが。そうではなくて、おばさんは、おならをするために一瞬立ち止まったのである。そのときの映像、それからブッというおならの音。歩きだすまでの間(ま)。この感じが、ほら、「見ている」のに、「見ている」ではなく、おならをしたくなって立ち止まって、おならをして、動きだすという、おならをする人の感覚になるでしょ? で、その感覚というのは、実は隠れているコリン・ファースの感覚そのもの。コリン・ファースは写っていないのに、その映像はコリン・ファースの意識そのもの。これは、コリン・ファースが演技をしているのではなく、また女優が演技をしているのでもなく、カメラの演技。おばさんまでの「距離」、おばさんの尻の位置をどこに据えるかというフレーム(構図)の問題。それがきっちりきまっている。このカメラの演技が全編にゆきわたるとコーエン兄弟の脚本のおもしろさはもっと引き立つだろうけれどね。

 コーエン兄弟なら、こう撮るんじゃないか、と思いながら見るなら、それなりにいろいろおもしろくなるけれど、喜劇を見にゆくつもりで行くと落胆するぞ。
                        (2013年05月19日、天神東宝7)



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