平川綾真智「チーズの水辺(John 1:1)」(「オオカミ」39、2022年2月発行)
平川綾真智の作品は「チーズの水辺」(John 1:1)と、鍵括弧、丸括弧つきのタイトル。さらに、レイアウトが凝っている。平川には平川の意図と意味があるのだろうけれど、私は、そういうものを気にしない。書いた人の気持ちを配慮していては、ことばを読んだことにはならない。どんなことばでも、発したひと(書いたひと)の意図/意味にしたがって読めば「傑作」になってしまう。「傑作」という印象は、他人のことばなのに、じぶんのことばのように感じられこと、これこそが私が言いたかったことと感じられることだが、その「私が言いたかったこと」に出会うのではなく、「作者がいいたかったこと」をそのまま押しつけられる形で「私の言いたかったこと」にされるのは、私は、納得がいかない。作者の意図/意味をそのまま鵜呑みにしなければならない作品など「駄作」である。でも、私はわがままな読者なので、作者の意図/意味を探して、それに対する共感を書くつもりはさらさらない。あくまで、自分の読み方で読み、自分のことばを動かす。ことばは、自分自身の考えを動かすためにある。まあ、平川にしても、平川のことばを動かしているだけ、ということなのだろうが。
と、書いてしまって気がつくのだけれど、実は、もうこれ以上書いてみても、ことばはどうどうめぐりをするだけだ。どこへもいかない。それを承知の上で、少し書いておく。(引用は、平川のレイアウトを無視しているので、平川の意図/意味を直接知りたいひとは、「オオカミ」を読んでください。平川は、縦書き表記のなかに、アラビア数字を横書きで書いている。ネットでは、全体が横書き表示なので、その区別はつかなくなる。)
縫い取った河川のセルロイドフレームを、肝臓色に引き潮が踏む 。背丈が
汚い男の子になって、野菜スープ1杯と磯辺焼き2つを生醤油っぽい廃液に浸
し丸い眠気を溜めていく膝っ頭に出来ていた水たまり4つは 、既に覗き込ま
れてしまった。ターコイズの古い蟹まで死骸が月、に 、ぼやけた少年の脱皮
していく生ぬるい沿岸、へ 、 皮膚へ靴下だらけ、を殺しちゃう 。
おもしろいと思ったのは「河川」と「セルロイドフレーム」のことばのつながりである。「川」ではなく「河川」。だから「セルロイドフレーム」。ことばのなかに「せ」という音の呼応があり、それが流れていく。「かせん」という音の長さが「セルロイドフレーム」という音の長さと呼応している。「川のセルロイドフレーム」では音が響きあわない。「川のセルロイド枠」でも音が響きあわない。
「丸い眠気を溜めていく膝っ頭に出来ていた水たまり」には「溜める」と「水たまり」の呼応がある。「覗き込む」とも呼応している。
「死骸が月、に 、」には「四月は残酷な月」のエリオットのことばが響いている。これには「生ぬるい」ということばもつながっていく。
ことばが、どこか「ことばの肉体」の感じをもって動いている。「背丈が汚い男の子」という動きも、「ことばの肉体の呼応」を「死骸が月、に 、」とエリオットのように私は連想はできないが、どこかに「出典」と呼べるものがあるかもしれないと感じさせる美しい響き(鍛えられたことばの肉体の印象)がある。
しかし、「殺しちゃう」は、そういう「ことばの肉体」とはかけ離れている。
詩は、このあと「トイザラス」とか「ハンバーグ」を経て、最後の方で
赤白赤aka 赤赤赤赤あか赤赤赤aka 白あかaka アカ白黒赤赤あか赤赤赤aka 赤赤赤顔肺臓チンして 、 眠れ 、
というところへたどりつく。この部分は、ぜんぜんおもしろくない。書き出しの部分に感じられた「ことばの肉体」が変質してしまっているとしか感じられない。あえて呼応があるとすれば「肝臓色」「殺しちゃう」と「赤」。引用しなかった部分にある「生まれなかった子供」「煉獄」「包丁」「手足を椀ぎ取り」「首手足をバラバラにして燃やし」「腸」「腎臓」「瓶詰め赤ちゃん」などをあげることができるかもしれない。しかし、これでは安直なグロテスクをねらったものになってしまう。引き合いに出されている江戸川乱歩が悲しすぎる。
枠組みの部分に散らばるように書かれた「1:1 」は「Word/God 」と対応しているのかもしれないけれど、それに呼応することばが「旧約聖書続編」では味気ない。「was 」という過去形も、ことばを閉じ込めてしまうだろう。