飯島耕一「トルファンへの旅」(「現代詩手帖」2008年12月号)
飯島耕一「トルファンへの旅」の初出誌は秋山巳之流句集『花西行』(2008年03月)。句集の「序詩」として書かれたものらしい。
書き出しのリズムが気持ちがいい。
「トルファン」が「アンファン」と韻を踏む。そこに、この詩のすべてというとおおげさかもしれないけれど、飯島が発見したものがある。飯島は、秋山巳之流句集を読みながち「永遠のアンファン」を感じたのだ。それは、飯島が「永遠のアンファン」になったということと等しい。そういう一体感のよろこびがある。よろこびのリズムがある。
「トルファン」と「アンファン」は同じものではない。しかし、何かが結びついている。そういうものを感じるこころが詩なのである。わけのわからないもの、断定できないなにか--そういうものにひかれて、動いてしまう瞬間、その時の、ことばにならない詩を、飯島は、また「トルファン」へ向かった秋山に感じている。
この3行も、はらはらするほど美しい。無垢なアンファンのことばだ。
このあと、飯島は、秋山の句をいくつか引用している。引用しながら、「トルファンと」「アンファン」が重なったように、飯島は、秋山と重なる。一体になる。
そして、それは「意味」として一体になるのではなく、音楽、リズムとして一体になっている。私の感想のように、くだくだとつまらないことを書かない。ただ、いくつかの句をぱっぱっと放り出すように引用している。そのリズムがとてもいい。最初から最後まで音楽がさーっと駆け抜ける。
駆け抜けたあとに、飯島の書いている「永遠」が輝く。
飯島耕一「トルファンへの旅」の初出誌は秋山巳之流句集『花西行』(2008年03月)。句集の「序詩」として書かれたものらしい。
書き出しのリズムが気持ちがいい。
歌びと を敬い
詩人と遊び
トルファン
花西行
トルファン
花西行
歌びと を敬い
詩人と遊び
この永遠のアンファンはいつの間にか
河沿いの俳の世界にひき込まれ
「トルファン」が「アンファン」と韻を踏む。そこに、この詩のすべてというとおおげさかもしれないけれど、飯島が発見したものがある。飯島は、秋山巳之流句集を読みながち「永遠のアンファン」を感じたのだ。それは、飯島が「永遠のアンファン」になったということと等しい。そういう一体感のよろこびがある。よろこびのリズムがある。
「トルファン」と「アンファン」は同じものではない。しかし、何かが結びついている。そういうものを感じるこころが詩なのである。わけのわからないもの、断定できないなにか--そういうものにひかれて、動いてしまう瞬間、その時の、ことばにならない詩を、飯島は、また「トルファン」へ向かった秋山に感じている。
なぜトルファンなのか
永遠の旅人の
永遠の謎
この3行も、はらはらするほど美しい。無垢なアンファンのことばだ。
このあと、飯島は、秋山の句をいくつか引用している。引用しながら、「トルファンと」「アンファン」が重なったように、飯島は、秋山と重なる。一体になる。
そして、それは「意味」として一体になるのではなく、音楽、リズムとして一体になっている。私の感想のように、くだくだとつまらないことを書かない。ただ、いくつかの句をぱっぱっと放り出すように引用している。そのリズムがとてもいい。最初から最後まで音楽がさーっと駆け抜ける。
駆け抜けたあとに、飯島の書いている「永遠」が輝く。
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