青柳俊哉「朝」、池田清子「雲」、徳永孝「居酒屋」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年06月29日)
前半はおもしろい。
「裏」ということばは「暗さ」を感じさせる。それが「光」で破られる。冬の弱い光ではなく、初夏の強い光。「光の森」は初夏の若葉が光を反射している風景だろうが、光そのものが「森」として存在しているとも読むことができる。「光」が比喩ではなく、「森」が比喩なのだ。この強い「光」は「神」ということばにつながっていく。「光の森」は「神の森」だ。「神」が「森」につどい、祝祭をあげている。「森」(神)が「光」を発している。「神」がそんなふうに華やいでいるので、それにつられるように、村人が家の外に出て話している。「神々がはなやいで」の「で」は、そんなふうに読むことができるし、また神々と村人が話しているとも読むことができるが、私は、初夏の透明で強い光の中で、村人自身が「神々」になって話し合っていると読んでしまう。
「光の森」で「森」が比喩なのだと書いたが、二つのものが出会うとき、その二つは交互に入れ替わる。光が森であり、森が光であるなら、神々が村人であり、村人が神である。
そうした祝祭を、鶏が空に向かって告げる。「鶏の声が空にたち」の「たち(立つ)」という日常ではあまりつかわないつかい方でことばを動かしているのも、祝祭にぴったりあっている。漁師は取れたばかりの鰹を運んでくる。祝祭の肴だ。青い背が、初夏の強い光を反射して輝いている。
この強烈な光の祭典は、次の「小川の水が不思議にあかるんで」までつづくが、その後は、ことばが「小川」につながる「水」にひきずられ、停滞してしまう。「水草」「水草」「水車」「水辺」と「水」から飛躍できなくなる。(「レモンの香りがする」は視覚から嗅覚へと肉体を活性化させるので、この部分は停滞しているわけではないが。)
「光と森」「神々と村人」のような、ふつうの連想では結びつかないものが結びつき、イメージが炸裂するという感じではなくなる。イメージではなく、「情景」になってしまう。
作者は「水(みず)」という音の「濁音」のつながりで、ひとつの世界を構成するつことを狙っている。「水車」を「みずぐるま」と読ませているのは、そのひとつの「証拠」なのだが、これは作者に「説明」を聞かないとわからない。
*
雲を見ている。しかし、雲を見ているうちに、作者は雲になってしまっている。雲は流れて消えていくもの。だから、最終蓮の「消えてしまう」の「主語」は雲であるはずなのに、しらずしらずに作者にすりかわっている。作者が「雲になって」消えてしまってもいいかなあと考えている。
書き出しの「あの」は遠くにあるものを指すことば。作者から「遠い」。しかし、「あの」と明確に意識したときから、「遠くにあるもの」が自分に近づいてくる。ことばにとっては「あの」雲だが、肉体は「この」雲と思って、「寝っころがって/おしゃべりして」しまう。このときの「主語」は作者。そして、雲といっしょになっている。雲といっしょだから寝ころがり、雲といっしょにおしゃべりをするのだ。「……て」「……て」と、ことばを言い切ってしまわずに、何かに預けている。これが、そのまま最終連へつながっていく。
とても自然にことばが動いている。
「きえてしまっても/いいかなあ」という終わり方には、消えてしまわなくてもいいのでは、という意見もあったが、作者の「いま(この詩を書いたとき)」の心境としては、「いま/ここ」から離れられたらなあという思いがあったのだろう。
*
この詩も、一度聞いたら、そのまま覚えられそうな正直さにあふれている。
この詩を読むときのポイントはひとつ。二連目の「友だちのえいこさん」ということばに、どんなことばを補うことができるかである。「えいこさん」を「友だち」ということばが修飾している。その「友だち」をさらに、どう修飾するか。
「美人の」「赤いシャツを着た」「きのうけんかした」「二日前に知り合った」「お金持ちの」「安倍首相から紹介された」。詩の前後がなければ、どういうことばでも修飾語として付け加えることができる。
でも、いま私が書いたようなことばを付け加えようとする人は誰もいないだろう。
きっと「好きな」か「大好きな」だろう。そして、その「好き」ということばは、一連目に書かれている。「好きな席」。そういう感じの「好き」なのである。「席」と「友だち」をいっしょにするのは奇妙かもしれないが、別個の存在を結びつけてしまうのがことばであり、結びつけた瞬間に生まれてしまうのが「詩」なのだ。
「徳永さんの好きな人ってどんな人?」
「うーん、居酒屋のカウンターの右端の席のような感じ」
「なに、それ?」
「ぼくは、居酒屋ではカウンターの右端にいつも座るんだ」
なんとなく、わかるでしょ?
で、その好きな友だちに、いまは席を譲っている。自分の気持ちが大事であるように、「えいこさん」が大事なのだ。
二連目の「座るので」の「ので」は、とても効果的である。「ので」がなくても客観的「事実」はかわらない。二人の座る位置が変わるわけではない。しかし、「主観的」事実は違うのだ。「ので」のなかに、「友だちのえいこさん」と書いたときに省略したのと同じ「省略(書かれなかったことば)」があるのだ。
ためしに、こう考えてみればいい。一連目。「好き」ということばをつかわずに、
わたしはいつもカウンターの
右端の席に座ります
と書いても、「客観的」事実はかわらない。いまは「右端にえいこさんが座り、二番目にわたしが座っている」。でも、書きたいのは「客観的」事実ではない。「主観的」事実である。「正直な気持ち」である。
この詩には、その「正直」があふれている。
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メールを使っての「現代詩通信講座」です。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
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朝 青柳俊哉
裏の戸をあけると
初夏の大きな光の森で
神々がはなやいで村人と話をしている
鶏(にわとり)の声が空にたち
漁師が運んできた荷箱の氷のうえの
鰹(かつお)の青い背がまぶしい
小川の水が不思議にあかるんで
水草や川アユのそよぎはレモンの香りがする
遠くの水車(みずぐるま)があじさいの葉を潤し
水辺の桃の木の陰の
きれいな子どもの喉(のど)をぬらす
酢(す)牡蠣(がき)や水(も)雲(ずく)がすずしい
前半はおもしろい。
「裏」ということばは「暗さ」を感じさせる。それが「光」で破られる。冬の弱い光ではなく、初夏の強い光。「光の森」は初夏の若葉が光を反射している風景だろうが、光そのものが「森」として存在しているとも読むことができる。「光」が比喩ではなく、「森」が比喩なのだ。この強い「光」は「神」ということばにつながっていく。「光の森」は「神の森」だ。「神」が「森」につどい、祝祭をあげている。「森」(神)が「光」を発している。「神」がそんなふうに華やいでいるので、それにつられるように、村人が家の外に出て話している。「神々がはなやいで」の「で」は、そんなふうに読むことができるし、また神々と村人が話しているとも読むことができるが、私は、初夏の透明で強い光の中で、村人自身が「神々」になって話し合っていると読んでしまう。
「光の森」で「森」が比喩なのだと書いたが、二つのものが出会うとき、その二つは交互に入れ替わる。光が森であり、森が光であるなら、神々が村人であり、村人が神である。
そうした祝祭を、鶏が空に向かって告げる。「鶏の声が空にたち」の「たち(立つ)」という日常ではあまりつかわないつかい方でことばを動かしているのも、祝祭にぴったりあっている。漁師は取れたばかりの鰹を運んでくる。祝祭の肴だ。青い背が、初夏の強い光を反射して輝いている。
この強烈な光の祭典は、次の「小川の水が不思議にあかるんで」までつづくが、その後は、ことばが「小川」につながる「水」にひきずられ、停滞してしまう。「水草」「水草」「水車」「水辺」と「水」から飛躍できなくなる。(「レモンの香りがする」は視覚から嗅覚へと肉体を活性化させるので、この部分は停滞しているわけではないが。)
「光と森」「神々と村人」のような、ふつうの連想では結びつかないものが結びつき、イメージが炸裂するという感じではなくなる。イメージではなく、「情景」になってしまう。
作者は「水(みず)」という音の「濁音」のつながりで、ひとつの世界を構成するつことを狙っている。「水車」を「みずぐるま」と読ませているのは、そのひとつの「証拠」なのだが、これは作者に「説明」を聞かないとわからない。
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雲 池田清子
あの
雲のあたりで
寝っころがって
おしゃべりして
そのまんま
消えてしまっても
いいかなあ
雲を見ている。しかし、雲を見ているうちに、作者は雲になってしまっている。雲は流れて消えていくもの。だから、最終蓮の「消えてしまう」の「主語」は雲であるはずなのに、しらずしらずに作者にすりかわっている。作者が「雲になって」消えてしまってもいいかなあと考えている。
書き出しの「あの」は遠くにあるものを指すことば。作者から「遠い」。しかし、「あの」と明確に意識したときから、「遠くにあるもの」が自分に近づいてくる。ことばにとっては「あの」雲だが、肉体は「この」雲と思って、「寝っころがって/おしゃべりして」しまう。このときの「主語」は作者。そして、雲といっしょになっている。雲といっしょだから寝ころがり、雲といっしょにおしゃべりをするのだ。「……て」「……て」と、ことばを言い切ってしまわずに、何かに預けている。これが、そのまま最終連へつながっていく。
とても自然にことばが動いている。
「きえてしまっても/いいかなあ」という終わり方には、消えてしまわなくてもいいのでは、という意見もあったが、作者の「いま(この詩を書いたとき)」の心境としては、「いま/ここ」から離れられたらなあという思いがあったのだろう。
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居酒屋 徳永孝
私の好きな席は
カウンターの右はしです
でも 近ごろは
友だちのえいこさんが
座るので
わたしは
右から2番目です
この詩も、一度聞いたら、そのまま覚えられそうな正直さにあふれている。
この詩を読むときのポイントはひとつ。二連目の「友だちのえいこさん」ということばに、どんなことばを補うことができるかである。「えいこさん」を「友だち」ということばが修飾している。その「友だち」をさらに、どう修飾するか。
「美人の」「赤いシャツを着た」「きのうけんかした」「二日前に知り合った」「お金持ちの」「安倍首相から紹介された」。詩の前後がなければ、どういうことばでも修飾語として付け加えることができる。
でも、いま私が書いたようなことばを付け加えようとする人は誰もいないだろう。
きっと「好きな」か「大好きな」だろう。そして、その「好き」ということばは、一連目に書かれている。「好きな席」。そういう感じの「好き」なのである。「席」と「友だち」をいっしょにするのは奇妙かもしれないが、別個の存在を結びつけてしまうのがことばであり、結びつけた瞬間に生まれてしまうのが「詩」なのだ。
「徳永さんの好きな人ってどんな人?」
「うーん、居酒屋のカウンターの右端の席のような感じ」
「なに、それ?」
「ぼくは、居酒屋ではカウンターの右端にいつも座るんだ」
なんとなく、わかるでしょ?
で、その好きな友だちに、いまは席を譲っている。自分の気持ちが大事であるように、「えいこさん」が大事なのだ。
二連目の「座るので」の「ので」は、とても効果的である。「ので」がなくても客観的「事実」はかわらない。二人の座る位置が変わるわけではない。しかし、「主観的」事実は違うのだ。「ので」のなかに、「友だちのえいこさん」と書いたときに省略したのと同じ「省略(書かれなかったことば)」があるのだ。
ためしに、こう考えてみればいい。一連目。「好き」ということばをつかわずに、
わたしはいつもカウンターの
右端の席に座ります
と書いても、「客観的」事実はかわらない。いまは「右端にえいこさんが座り、二番目にわたしが座っている」。でも、書きたいのは「客観的」事実ではない。「主観的」事実である。「正直な気持ち」である。
この詩には、その「正直」があふれている。
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週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
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費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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