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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「夏庭」

2009-05-21 11:02:35 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「夏庭」(「ロッジア」4、2009年01月31日発行)

 書き出しの第1段落に、おもしろい表現がある。

そう考えないでは、このコロニーが広大であるとはいえ、収容されている私たちが二、三十人程度で、だれともほぼ毎日顔を合わせることを思えば、牧場のような広さの庭がそれぞれの家に附属しているとは考えにくい。

 「考えないでは……思えば……考えにくい。」ちょっと眩暈をおぼえる。わからないわけではないが、もっとわかりやすい表現があるのではないか、と思う。「わかりやすい」というのは、もっと整理されたということかもしれない。ことばの重複を避けて、ことばが直線的に進んでいく「論理」があるかもしれない。
 しかし、もし、そういう表現が可能だとして、わかりやすい表現にしてしまったとしたら、そこには詩はない。少なくとも時里の詩は、そこにはなくなってしまう。時里の詩は、読点で区切られた文ごとを読むかぎり明瞭なのに、ひとつづきに読んでしまうと、どこか「正しい(?)」とこばとは少しずれたところに引きずり込まれたような、一種の眩暈のなかにある。
 時里の見ている風景(光景)は、少し、日常的な風景(光景)とは違う。いや、風景(光景)自体は、それほど違わないのかもしれないが、その風景(光景)を描写することばの動きが微妙に違っていて、そのために、なんだか不思議なところへ引きずり込まれたような気持ちになる。
 別な言い方をしよう。
 時里は、ある描写をする。そのときの「対象」それ自体は、そんなに複雑なものではない。ある意味では単純なものである。たとえば、この作品では、「夏庭」と名付けられた「庭」が描写されている。ところが、いったんことばが動きはじめると、それは「夏庭」を離れて、ことばそのものを追いかけている感じに変わる。「夏庭」という対象そのものではなく、ことばそのものの運動のなかにひきずりこまれた感じになる。
 描写の「対象」は消え、描写そのもの、ことばの動きだけが浮き上がってくる。対象とことばが分離して、ことばが、無重力状態のなかで自在に動き回る。その浮遊感、別なことばで言えば、足が浮いてしまったような不安定感、不安定なのにその「場」が無重力なので倒れないという変な感じ、眩暈としかいいようのない奇妙な感じに引きずり込まれる。そんな不安定な感じのなかで、なぜか、ことばだけはくっきりと輪郭をもっている。
 そこに、時里の独自性がある。詩がある。

 この作品の最後の部分。

 影はわたしたちを内省的にします。影に気づくことによって、わたしたちは、みずからの存在を反省的に触知する。しかし、それは文字どおり、わたしたちの存在を脅かす影。
 コロニーでは、あなたの影がわたしなのです。

 この「影」を「ことば」と置き換えて読みたい衝動にかられる。どうしても「ことば」と置き換えて読んでしまう。

 「ことば」はわたしたちを内省的にします。「ことば」に気づくことによって、わたしたちは、みずからの存在を反省的に触知する。しかし、それは文字どおり、わたしたちの存在を脅かす「ことば」。
 コロニーでは、あなたの「ことば」がわたしなのです。

 「あなたのことば」は「時里のことば」でもある。時里の詩を読むと、どうしても「ことば」というものに気づく。「ことば」が、その運動が気になる。書かれている「対象」はほとんど「意味」がない。なにを書いてあるかはどうでもいい。どう書いてあるか、ということだけが気になる。どう書くか、というのは、つまり、対象にどんなふうに近づいてゆき、どんなふうに距離を保ち、どんなふうに「考える」か、ということなのだ。
 そこに書かれているのは、「時里のことば」であるけれど、それは「読者のことば」でもある。そのことばの運動にすっぽりとりこまれて、時里の考えるようにしか考えることができなくなるからである。
 時里のことばは、そういう「引力」をもっている。



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