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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーク・フォースター監督「主人公はぼくだった」

2007-05-22 14:07:16 | 映画
監督 マーク・フォースター 出演 ウィル・フェレルエマ・トンプソンダスティ・ホフマン、マギー・ギレンホール

 脚本がたいへんすばらしい。ナレーションというのは映画では邪道だと思うが、ナレーションがナレーションでなくなる過程がおもしろい。そして、そのナレーション、たとえば「主人公ハロルド、そのことを知るよしもなかった」という小説のナレーション(第三者の特権的視点)と交錯し、その交錯から、映画(現実)の主人公が実は小説の主人公であり、小説と現実(映画)が交渉しはじめる。ナレーションの問題自体、文学教授のダスティン・ホフマンが語るのだが、このあたりの操作もとても刺激的だ。
 ダスティン・ホフマンは、さらに悲劇と喜劇の違いとか、「主人公は死んでも小説は死なない。傑作のために主人公は死ぬべきだ」というような、声を出して笑わずにはいられないせりふを次々に繰り出す。ダスティン・ホフマンは、笑わずに(あたりまえだけれど)、「私は文学の構造と完成度にしか興味がありません」というような感じをストレートな演技で展開し、この映画にスピード感を与えている。
 作家にかぎらずことばを書く人間というのは、ことばが現実になってしまうという印象に囚われ、書きたいけれど書けない、ということがある。逆に先に書いてしまえば、それはフィクションになってしまい、現実には起きない、だから書いてしまっておく、ということもある。その、奇妙な現実とことばのあいだでの実感を、エマ・トンプソンがいきいきと演じている。交通事故のシーンを書きたくて事故の多い現場へ出向いて事故を待っているシーンの演技などは、思わず笑ってしまう。笑いながら、ひきこまれてしまう。
 エマ・トンプソンが映画の流れを引き止め、ダステン・ホフマンが映画の流れを加速する。その間にあって、ウィル・フェレルが右往左往する。『プロデューサーズ」』でみせたような過剰な演技をおさえ、小説の主人公なのに(映画のなかの主人公でもあるのだけれど)、ストーリーの主人公をやめて逸脱し(たとえばギターに夢中になる)、自分をとりもどしてくという過程もおもしろい。
 そして、そのストーリーから逸脱し、自己を豊かにしていくという部分こそ、実は小説(そして映画)では一番重要な部分、感動的な部分でもある。そういう部分が紋切り型だと小説、映画はつまらなくなる。ストーリーから逸脱していくものだけがストーリーを豊かにする。(この映画のなかの「小説」の部分でいえば、たとえば主人公が書類を整理しているときの音--それを海の音と感じる、というナレーションの逸脱。ナレーションさえも逸脱しないと、紋切り型の駄作になる。)
 文学、映画をふくめ、芸術全般に通じる問題を、笑いーで味付けしながらさーっと流しとったマーク・フォースター監督もいい感じだ。立ち止まり、こってり描写すると、映画が映画ではなくなってしまう。脚本のよさを生かして、演出をおさえて撮っているが、この映画のほんとうの魅力かもしれない。
 文学好きの人のための、文学文学したお笑い映画だけれど、文学に興味がなくても、もしかしたら自分は小説(物語)の主人公で……と夢想したことのある人(自分は捨て子だった、もらい子だったと空想するのと同じように、だれでもそういう経験はあると思うが)なら、その夢の感じを楽しむこともできなます。ちゃんと、そういう「物語」向きに、頑固だけれどなぜか魅力的な女性、マギー・ギレンホールとの恋もあります。と、書いて、いやあ、ほんとうにおもしろい脚本、ていねいに書かれた脚本だなあ、とあらためて思った。マギー・ギレンホールについては書くつもりはなかったのだが、自然に感想に書かされてしまう。登場人物が全員ていねいに描かれているから、ついつい全員についてふれずにはいられなくなる。そういう脚本だ。そういう演出だ。


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