田中庸介「夜の楢山」(「妃」18、2016年09月22日発行)
田中庸介「夜の楢山」は、こんな具合に始まる。
で、必然的に、このあとは手術を拒むおばと田中の周辺のやりとりが展開されるのだが。
私は、三か所(三つのことば)に傍線を引いた。
最初は「勝ち誇った」、そのあとすぐ読み返して「(眼の)」、そして「身体(からだ)」。最後の「身体」は本文は「ルビ」。
「勝ち誇った」に傍線を引いたのは、そこに「おばの肉体」を感じたからである。「我を張る」ときの「肉体」というのは、たぶん多くの人に共通している。「我を張る」では「肉体」を感じないが「勝ち誇った」には「肉体」を感じる。「我」も個人的なものなのたが、「誇り」の方がもっと「個人的」と感じるのかなあ。きのう読んだ小松弘愛の詩の余韻が私の「肉体」のなかに残っていて、それが影響しているのかもしれないが、この「勝ち誇った」には「喜び」がある。それが、なんともいえず、うれしい。
田中には申し訳ないが、この「おば」に「頑張れ」と声をかけたくなるような感じ。「勝ち誇った」人間というのは、なんだかわからないが「勇気」をくれる。それがうれしいのである。
この強烈な「肉体」の自己主張に、どう田中はぶつかっていくのか。読まなくても、こりゃあ、田中の負けだね、とわかる。
そして、その最初の「負け」は「眼の」にある。
これは、ごく普通のことばの順序では
である。「意味」は、まあ、「便宜上」は「同じ」。そして、倒置法で、しかもかっこに(眼の)ということばを補ったものよりは、普通の順序の方が「読みやすい」。理解しやすいとも言い換えてもいいかもしれない。
なぜ、倒置法で(眼の)と書いたのか。
こういうことは考えても仕方がないことなのかもしれないが、どうでもいいことなのかもしれないが、私は考えるのである。
「おばが手術を拒む」と書いた段階では、「おば」は「肉体」を持っていない。「手術を拒む」という「こと」が前面に出てきていて、「おば」は「肉体」というよりも「我(が)」である。「我」を「精神」と呼ぶ人もいる。「精神」というのは「論理」でもある。そして「論理」というのは「説得」が可能なものでもある。つまり「こっちの方が論理的」ということを証明することで、最初の「論理」を変更することができる。実際、そういうことを考えているからこそ、手術を拒む「おば」を田中たちは説得しようとするわけである。
ところが「おば」は「精神/論理」ではないのだ。「精神/論理」である前に「肉体」である。「眼」である。「論理/精神」というのは「共有」できる。でも「眼」は完全に個人のものであり、「共有」できない。「共有」するためには「論理/ことば/精神」を経由しなくてはならない。ここに、「説得」の困難さがある。
で。
田中はどうしたかというと。(眼の)と括弧で「肉体」を補うことで、「精神/肉体」の関係を、修正しようとしているのだが。
ここが問題。
「おば」は「わたしはもう十分に生きてきた、自分のからだは自分のものなんだから、」と言ったが、そのとき「おば」は「身体」という「文字」をつかみとっていたか。たぶん、違うと思うなあ。「からだ」を「身体」とととのえなおしてつかみとったのは田中である。「おば」のことばを田中は整理しなおしている。「からだ」を「身体」と書くのは田中であって、「おば」ではない。
「おば」は「からだは自分のものなんだから、自分の好きなようにさせて欲しい!」と言っている。その「おば」に対して
「ことば」すら「おばの好きなように」はさせていない。
言い換えると、「おばの肉体(ことばも肉体)」に対して、田中は田中の「精神/ことば」で向き合っている。「おばの肉体(おばのことばの肉体)」をもてあましている。そのまま受け止めることができずに、自分の「ことば」に変換して、「ことば」として受け止めようとしている。
「おばの肉体」が問題なのに、その「肉体」が切り離され、「共有できることば/精神」になっている。
だからといえばいいのかどうか、かなりむずかしいが。
このあと、「論理/ことば」であることを拒絶する「おば」の「肉体」と、田中側の「論理/ことば」のぶつかりあいになる。そのなかで、
という行があらわれる。
「倫理的論理的」については、もう「補足説明」はいらないと思うが、私がここで傍線を引くのは「こわい」である。「心がこわい」ということばは象徴的だ。「こわい」のは「こころ」である。「肉体」が「こわい」わけではない。「こころ」は、また「精神」と呼び変えることができるだろう。
それから、すぐに次の二行が出てくる。
「負けている」「負けである」。ここに傍線を引きながら、私は笑いだしてしまう。「論理/精神」なんてところで右往左往するから「負ける」ということばがでてくる。「論理」は「勝つ」ことをめざすものなのだ。「勝つ」は「結論」と言ってもいいかもしれない。
でも、このときの「勝つ」は、
この「勝つ」とは違っているね。
「おば」の「勝ち誇る」は「負けても」、勝ち誇ることができるのである。それは「論理」ではないからだ。「結論/解決」というものを「放棄」している。そんなものは捨ててしまって、ただ「肉体」そのものを「これが私」とさらけ出している。「肉体」がそこに「ある」ということが「肉体」の「勝つ」なのであり、それは生まれた瞬間から「勝ち続ける」ものである。「負ける」のは「死ぬ」ときだけ。
そこが「精神/論理」とは違う。
私は詩を読むとき(ことばを読むとき)、主語と動詞にこだわるが、動詞が同じなら「意味」はおなじとは限らない。「意味」というものは主語/動詞の結びつきで、その瞬間瞬間にあらわれてくるものであって、その結びつきを超えて動くものではないのだ。
いつも主語と動詞を「ひとつ」にして読まないといけないのだと思う。
この「負ける」は、あくまで田中の「論理」。「論理」というのもはとてもおかしなもので、それ自体「肉体」を持っていて、自立して動いていく。
動いていく「論理」には、そして、それを動かしている田中には、それはおかしなものではないだろうけれど、傍から見ると、まるでコメディーである。
「負ける」は次のようにことばを増やしていく。自己増殖する。
この「論理の肉体/ことばの肉体」に、私は大笑いしながら、でも、これって、いままでの田中の「ことばの肉体」とはかなり違うなあ、という感じも持つ。
(これは、この詩を読み始めてすぐ、あれっと思った感じ、だから、なにか書いてみようと思った感じにつながるのだけれど。)
このままじゃ、困るんだけれど、とも思う。
私が好きだった田中がいなくなってしまう、という不安かな。
そう思っていると「論理の肉体」が動くだけ動いた後、それが「結論」に達しないで、破れてしまう。
ここで田中は「我に返る」。
ここで、私は、ああよかった、と思う。
何を書いてきたのかを忘れてしまう。もう、書きたいことがなくなった。そう、「肉体」には「正しい」も「勝利」もいらない。
ここが好きだなあ。
あれこれことばを動かし、笑いながら読んできて、ここで、いままで知っている田中の「ことばの肉体」に出合う。あ、生きていると感じる。
そうか、田中は「おば」のような「肉体のことば」とはあまり親身につきあってこなかったのか。「おば」だから、あたりまえだけれど。そのために「悪戦苦闘」したのか。でも「正しい」「論理」「勝利」というような「ことばの肉体」から離れて、別の「ことばの肉体」を動かせば、突然、自然にもどる。正直にもどる。
「ことばの肉体」は何かの衝撃で「ずれる」。そしてそれがもとにもどるまでには、あれこれを経由しないといけないのだが、必要なだけ経由すればもとにもどるということかなあ。
なんとなく「ふーん」と思った。「ふーん」の「意味」を説明することはむずかしいけれど。きっと誤解されるだろうけれど。
田中庸介「夜の楢山」は、こんな具合に始まる。
このきりきりと痛む感じはなんだろう。
おばが手術を拒む(眼の)。
手術はいやだから、やりまっせん、
とおばはいう。やんなさい/いやっ/やんなさい/いやっ/やんなっさい、
わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、
もはやこのまま、自分の好きなようにさせて欲しい!
と、おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである。
で、必然的に、このあとは手術を拒むおばと田中の周辺のやりとりが展開されるのだが。
私は、三か所(三つのことば)に傍線を引いた。
最初は「勝ち誇った」、そのあとすぐ読み返して「(眼の)」、そして「身体(からだ)」。最後の「身体」は本文は「ルビ」。
「勝ち誇った」に傍線を引いたのは、そこに「おばの肉体」を感じたからである。「我を張る」ときの「肉体」というのは、たぶん多くの人に共通している。「我を張る」では「肉体」を感じないが「勝ち誇った」には「肉体」を感じる。「我」も個人的なものなのたが、「誇り」の方がもっと「個人的」と感じるのかなあ。きのう読んだ小松弘愛の詩の余韻が私の「肉体」のなかに残っていて、それが影響しているのかもしれないが、この「勝ち誇った」には「喜び」がある。それが、なんともいえず、うれしい。
田中には申し訳ないが、この「おば」に「頑張れ」と声をかけたくなるような感じ。「勝ち誇った」人間というのは、なんだかわからないが「勇気」をくれる。それがうれしいのである。
この強烈な「肉体」の自己主張に、どう田中はぶつかっていくのか。読まなくても、こりゃあ、田中の負けだね、とわかる。
そして、その最初の「負け」は「眼の」にある。
おばが手術を拒む(眼の)。
これは、ごく普通のことばの順序では
おばが眼の手術を拒む。
である。「意味」は、まあ、「便宜上」は「同じ」。そして、倒置法で、しかもかっこに(眼の)ということばを補ったものよりは、普通の順序の方が「読みやすい」。理解しやすいとも言い換えてもいいかもしれない。
なぜ、倒置法で(眼の)と書いたのか。
こういうことは考えても仕方がないことなのかもしれないが、どうでもいいことなのかもしれないが、私は考えるのである。
「おばが手術を拒む」と書いた段階では、「おば」は「肉体」を持っていない。「手術を拒む」という「こと」が前面に出てきていて、「おば」は「肉体」というよりも「我(が)」である。「我」を「精神」と呼ぶ人もいる。「精神」というのは「論理」でもある。そして「論理」というのは「説得」が可能なものでもある。つまり「こっちの方が論理的」ということを証明することで、最初の「論理」を変更することができる。実際、そういうことを考えているからこそ、手術を拒む「おば」を田中たちは説得しようとするわけである。
ところが「おば」は「精神/論理」ではないのだ。「精神/論理」である前に「肉体」である。「眼」である。「論理/精神」というのは「共有」できる。でも「眼」は完全に個人のものであり、「共有」できない。「共有」するためには「論理/ことば/精神」を経由しなくてはならない。ここに、「説得」の困難さがある。
で。
田中はどうしたかというと。(眼の)と括弧で「肉体」を補うことで、「精神/肉体」の関係を、修正しようとしているのだが。
わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、
ここが問題。
「おば」は「わたしはもう十分に生きてきた、自分のからだは自分のものなんだから、」と言ったが、そのとき「おば」は「身体」という「文字」をつかみとっていたか。たぶん、違うと思うなあ。「からだ」を「身体」とととのえなおしてつかみとったのは田中である。「おば」のことばを田中は整理しなおしている。「からだ」を「身体」と書くのは田中であって、「おば」ではない。
「おば」は「からだは自分のものなんだから、自分の好きなようにさせて欲しい!」と言っている。その「おば」に対して
「ことば」すら「おばの好きなように」はさせていない。
言い換えると、「おばの肉体(ことばも肉体)」に対して、田中は田中の「精神/ことば」で向き合っている。「おばの肉体(おばのことばの肉体)」をもてあましている。そのまま受け止めることができずに、自分の「ことば」に変換して、「ことば」として受け止めようとしている。
「おばの肉体」が問題なのに、その「肉体」が切り離され、「共有できることば/精神」になっている。
だからといえばいいのかどうか、かなりむずかしいが。
このあと、「論理/ことば」であることを拒絶する「おば」の「肉体」と、田中側の「論理/ことば」のぶつかりあいになる。そのなかで、
また全身全霊でおれたちの倫理的論理的おすすめをはねつけるおばがこわい、
もうクライアントが亡くなってしまえば楽なのにと思う自分らの心がこわい、
という行があらわれる。
「倫理的論理的」については、もう「補足説明」はいらないと思うが、私がここで傍線を引くのは「こわい」である。「心がこわい」ということばは象徴的だ。「こわい」のは「こころ」である。「肉体」が「こわい」わけではない。「こころ」は、また「精神」と呼び変えることができるだろう。
それから、すぐに次の二行が出てくる。
おばの死にたい気持ちと共謀して楢山におばを背負っていくのは負けている、
もう緩和ケアでいいじゃないかとおばに説得されてしまったなら負けである、
「負けている」「負けである」。ここに傍線を引きながら、私は笑いだしてしまう。「論理/精神」なんてところで右往左往するから「負ける」ということばがでてくる。「論理」は「勝つ」ことをめざすものなのだ。「勝つ」は「結論」と言ってもいいかもしれない。
でも、このときの「勝つ」は、
おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである
この「勝つ」とは違っているね。
「おば」の「勝ち誇る」は「負けても」、勝ち誇ることができるのである。それは「論理」ではないからだ。「結論/解決」というものを「放棄」している。そんなものは捨ててしまって、ただ「肉体」そのものを「これが私」とさらけ出している。「肉体」がそこに「ある」ということが「肉体」の「勝つ」なのであり、それは生まれた瞬間から「勝ち続ける」ものである。「負ける」のは「死ぬ」ときだけ。
そこが「精神/論理」とは違う。
私は詩を読むとき(ことばを読むとき)、主語と動詞にこだわるが、動詞が同じなら「意味」はおなじとは限らない。「意味」というものは主語/動詞の結びつきで、その瞬間瞬間にあらわれてくるものであって、その結びつきを超えて動くものではないのだ。
いつも主語と動詞を「ひとつ」にして読まないといけないのだと思う。
この「負ける」は、あくまで田中の「論理」。「論理」というのもはとてもおかしなもので、それ自体「肉体」を持っていて、自立して動いていく。
動いていく「論理」には、そして、それを動かしている田中には、それはおかしなものではないだろうけれど、傍から見ると、まるでコメディーである。
「負ける」は次のようにことばを増やしていく。自己増殖する。
おばさん手術はしなくてもいいんじゃないか、と
つるっと口をすべらかしたらおしまいだ、
それは近代医療の敗北だ、
それは理想的な介護の失敗だ、
それは文明社会の敗北だ、とまでは言わないけれど、
おばに負けたくない、どうにかして負けたくない、
という気持ちに、いつのまにか、
論理的に説得したい、という気持ちがダブルに飲み込まれている。
最適な治療方法を理性的に選択してもらおうとする知性、それが喪われている。
この「論理の肉体/ことばの肉体」に、私は大笑いしながら、でも、これって、いままでの田中の「ことばの肉体」とはかなり違うなあ、という感じも持つ。
(これは、この詩を読み始めてすぐ、あれっと思った感じ、だから、なにか書いてみようと思った感じにつながるのだけれど。)
このままじゃ、困るんだけれど、とも思う。
私が好きだった田中がいなくなってしまう、という不安かな。
そう思っていると「論理の肉体」が動くだけ動いた後、それが「結論」に達しないで、破れてしまう。
負けず嫌いの、卑小な、小市民の、
意地を張り合いたがる人格の小ささが、むむむ、
ついムキになる、自分の気持ちの奥から引きずり出されて、
意地っぱり。
ホラホラこれがおまえの小ささだ、
と人前で、
あからさまに、
全員に対してみせつけられている、標本のように。
おばの頑強な、そしてか弱い老練な人格は
わたしたちの偽善の卑小さを一人ひとり、
手相、顔相、二十面相のように
すっかり浮き彫りにして下さろうとする。
正しいってなんだ。
論理ってなんだ。
なんで敗北とか勝利とか
そういうことばが出てこなくちゃならないんだここに、
ここで田中は「我に返る」。
ここで、私は、ああよかった、と思う。
何を書いてきたのかを忘れてしまう。もう、書きたいことがなくなった。そう、「肉体」には「正しい」も「勝利」もいらない。
八十七歳。
水がゆらゆら流れる。
お香のけむりがゆらゆら流れる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
ああ、ああ、
わくわくするよ、
千三百円の天ぷらそば、
ここが好きだなあ。
あれこれことばを動かし、笑いながら読んできて、ここで、いままで知っている田中の「ことばの肉体」に出合う。あ、生きていると感じる。
そうか、田中は「おば」のような「肉体のことば」とはあまり親身につきあってこなかったのか。「おば」だから、あたりまえだけれど。そのために「悪戦苦闘」したのか。でも「正しい」「論理」「勝利」というような「ことばの肉体」から離れて、別の「ことばの肉体」を動かせば、突然、自然にもどる。正直にもどる。
「ことばの肉体」は何かの衝撃で「ずれる」。そしてそれがもとにもどるまでには、あれこれを経由しないといけないのだが、必要なだけ経由すればもとにもどるということかなあ。
なんとなく「ふーん」と思った。「ふーん」の「意味」を説明することはむずかしいけれど。きっと誤解されるだろうけれど。
![]() | 詩誌「妃」18号 |
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