高橋睦郎「犬いわく」(「現代詩手帖」9月号)。
どこで読んだのか忘れてしまったが、北川透が、谷川俊太郎、高橋睦郎、荒川洋治の3人はどんな種類の詩でも書けるというふうなことを書いていた。そのひとり、高橋が犬の視線で人間をみつめた詩。これが妙に寂しい気持ちを呼び覚ます。
その最終連。
「N・T」の「ぼく、イヌなんです」ということばが詩の最初に掲げられている。そのことばを信じれば、「ぼく」とは「N・T」、「彼」とは高橋のこと、あるいは「N・T」の知り合いの誰か、ということになるだろうか。
「N・T」から見れば、「彼」は時間を自分で完結させている、空間を自分でいっぱいにしている。いわば「自立」していて誰にも頼っていない。それはしかし「N・T」から見れば「孤独」に感じられる。
これはもちろん「N・T」が語ったことばではない。高橋が「N・T」が思っているだろうと想像して描いたことばである。したがって、それは本当は高橋自身のことばである。「N・T」が「イヌ」であるという視点を借りて、高橋は、自分自身を、そのことばのなかに隠して、隠しながら、みせる。(少し、粕谷栄市の「うどん屋を夢見る男」と「夢見られたうどん屋の男」の関係に似ている。似ているとは書いてはみたが、本当はまったく違う。)
そんなふうに高橋は間接的に「自画像」を描いてみせる。自分で完結させた時間、自分でいっぱいの空間を生きている男。それは本当は孤独である、と。そして「熱い舌で舐め」られることを待っている、と。
それに気がついてほしいと願っている。
寂しさは、その願いというよりも、「イヌ」に託して自画像を描いてしまうことの寂しさである。
それに先立つ連。
「言葉でさぐりあ」うのではなく、「ぼくら」のように直接「鼻で嗅ぎあ」えばいいのだ。本当は、それが自然なのだ。鼻で嗅ぎあい、何かわからないまま、愛が立ち上がり、命が産み落とされる……というより、もし愛というものがあるとしたら、鼻で嗅ぎあい、交尾し、命を産み落として、そのとき愛が愛になるのだろう。命を産み落とすよろこび、新しい命を見るよろこび、それをもたらしてくれたものが愛だったと気がつくのだろう。
そうであるなら、最終連は、また違ったふうに読むことができるだろう。
「彼」の「孤独」を癒そうとして熱い舌で舐めつづけるイヌ。その存在が、彼が時間を自分で完結させている、自分で空間をいっぱいにしているという状態、つまり、孤独を産み落としているのだ。イヌによって、彼を舐めつづけるイヌによって、高橋は孤独を孤独と気がついたのだ。
こんなふうに書けば、まるで、イヌも高橋自身になってしまう。イヌが批判(?)していたことばを借りれば、「彼」は「存在」を自分でいっぱいにしてしまう。
本当はそうなのかもしれない。高橋は時間を自分で完結させる。空間を自分でいっぱいにする。あらゆる存在に自己を投影し、自己として描いてしまう。あらゆる詩を自在に書いてしまえるということはそういうことかもしれない。
そして、そこにこそ本当の寂しさがあるのかもしれない。人間がことばになってしまうという寂しさ。この寂しさを癒せるのは、イヌの舌だろうか。どうも違うように感じる。この寂しさを癒せるのは新しいことばである。誰も書かなかったことばである。寂しさを感じながら、なお、新しいことばを求めずにはいられない高橋の「自画像」がひっそりと隠されているのを感じた。
その新しいことばはどこにあるのか。たぶん、イヌの舌、「彼」を癒そうとして舐めつづけるイヌの舌の熱さのなかにある。熱いと感じる「彼」の触覚にある。その、まだことばにならないものを探している静かな静かな「自画像」としても、この詩は読むことができるだろうと思う。
どこで読んだのか忘れてしまったが、北川透が、谷川俊太郎、高橋睦郎、荒川洋治の3人はどんな種類の詩でも書けるというふうなことを書いていた。そのひとり、高橋が犬の視線で人間をみつめた詩。これが妙に寂しい気持ちを呼び覚ます。
その最終連。
歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかない
「N・T」の「ぼく、イヌなんです」ということばが詩の最初に掲げられている。そのことばを信じれば、「ぼく」とは「N・T」、「彼」とは高橋のこと、あるいは「N・T」の知り合いの誰か、ということになるだろうか。
「N・T」から見れば、「彼」は時間を自分で完結させている、空間を自分でいっぱいにしている。いわば「自立」していて誰にも頼っていない。それはしかし「N・T」から見れば「孤独」に感じられる。
これはもちろん「N・T」が語ったことばではない。高橋が「N・T」が思っているだろうと想像して描いたことばである。したがって、それは本当は高橋自身のことばである。「N・T」が「イヌ」であるという視点を借りて、高橋は、自分自身を、そのことばのなかに隠して、隠しながら、みせる。(少し、粕谷栄市の「うどん屋を夢見る男」と「夢見られたうどん屋の男」の関係に似ている。似ているとは書いてはみたが、本当はまったく違う。)
そんなふうに高橋は間接的に「自画像」を描いてみせる。自分で完結させた時間、自分でいっぱいの空間を生きている男。それは本当は孤独である、と。そして「熱い舌で舐め」られることを待っている、と。
それに気がついてほしいと願っている。
寂しさは、その願いというよりも、「イヌ」に託して自画像を描いてしまうことの寂しさである。
それに先立つ連。
彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波の寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつをつれた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ち上がり
愛から 生命が産み落とされたりする
「言葉でさぐりあ」うのではなく、「ぼくら」のように直接「鼻で嗅ぎあ」えばいいのだ。本当は、それが自然なのだ。鼻で嗅ぎあい、何かわからないまま、愛が立ち上がり、命が産み落とされる……というより、もし愛というものがあるとしたら、鼻で嗅ぎあい、交尾し、命を産み落として、そのとき愛が愛になるのだろう。命を産み落とすよろこび、新しい命を見るよろこび、それをもたらしてくれたものが愛だったと気がつくのだろう。
そうであるなら、最終連は、また違ったふうに読むことができるだろう。
「彼」の「孤独」を癒そうとして熱い舌で舐めつづけるイヌ。その存在が、彼が時間を自分で完結させている、自分で空間をいっぱいにしているという状態、つまり、孤独を産み落としているのだ。イヌによって、彼を舐めつづけるイヌによって、高橋は孤独を孤独と気がついたのだ。
こんなふうに書けば、まるで、イヌも高橋自身になってしまう。イヌが批判(?)していたことばを借りれば、「彼」は「存在」を自分でいっぱいにしてしまう。
本当はそうなのかもしれない。高橋は時間を自分で完結させる。空間を自分でいっぱいにする。あらゆる存在に自己を投影し、自己として描いてしまう。あらゆる詩を自在に書いてしまえるということはそういうことかもしれない。
そして、そこにこそ本当の寂しさがあるのかもしれない。人間がことばになってしまうという寂しさ。この寂しさを癒せるのは、イヌの舌だろうか。どうも違うように感じる。この寂しさを癒せるのは新しいことばである。誰も書かなかったことばである。寂しさを感じながら、なお、新しいことばを求めずにはいられない高橋の「自画像」がひっそりと隠されているのを感じた。
その新しいことばはどこにあるのか。たぶん、イヌの舌、「彼」を癒そうとして舐めつづけるイヌの舌の熱さのなかにある。熱いと感じる「彼」の触覚にある。その、まだことばにならないものを探している静かな静かな「自画像」としても、この詩は読むことができるだろうと思う。