詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」

2020-03-22 15:28:06 | 映画
豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」(★★★★★)

監督 豊島圭介 出演 三島由紀夫、芥正彦

 いろいろなことが語られているが、見せ場は「解放区」についての討論。「他人」「もの」「時間」をどうとらえるか。このテーマは、三島のテーマというよりも、この時代のテーマでもある。だからこそ、全共闘の芥正彦との対話が成り立っている。(ついでに書いておくと、私が大好きな安部公房も、他人、もの、時間について書いていた。つまり、解放区について。)
 私が理解した範囲で語りなおすと。
 三島は、「もの」のなかには「もの」が「もの」として存在するまでの過程としての「時間」を含んでいる。いま、ここに「机(もの)」がある。それが「机」として存在するのは、木を加工し、机という形にととのえたひとがいて、またそこに労働があるからだ。これを破壊しバリケードとしてつかう。壊してつかうことも可能だし、そのままの形としてつかうこともできる。いずれにしろ、そのとき、机をつくったひとの「時間/労働」は否定される。「時間」が否定され、「もの」が瞬間的に「空間(場)」を構成(形成)するものとしてあらわれる。これが「解放区」。そして、この「解放区」を構成する「もの」を「他人/他者」と呼ぶことができる。ただ「自分」の欲望のためにだけ存在する「対象」のことである。これに「人間(自分)」がどうかかわっていくか。自分の中には「自分の時間」がある。また、ともに存在する他の人間(他者ではない)へどうつなげてゆくか。言い直すと「連帯」するか。それを「もの」の破壊(解放)にあわせて、どうつくりかえていくかという問題でもある。そのとき、三島は「時間」と直面する。自己延長としての「時間」である。
 芥はこれに対して、途中までは三島と意見を一致させるが、「時間」の問題と向き合うときから、完全に違ってくる。「自己延長」としての「時間」(他者を自己に従属させるということになる)は「解放区」を否定する。持続(連続)としての「時間」を存在させてはならない。常に「解放区」は「解放区」として存在しなければ存在の意味がない。「解放区」を出現させ続けることが「革命」だ。
 論理としては、芥が完全に三島を論破している。
 しかし、「論理」の問題は、どちらが勝ったかということではケリがつかないところにある。三島の論は論として「完成」している。だから、どんなに芥に論破されようと、三島は三島の「論理」に帰っていて、そのなかで「自己完結」できる。
 芥は芥で、三島を「論破」したところで、それから先に何があるわけでもない。芥の論理は論理として「完結」している。つまり、それを実行できるのは芥だけであり、結局はだれとも共有できないのだ。
 もちろん一部のひととは共有できる。だから、生きている。
 私がここで書く「共有」とは、たとえばボーボワールの「女は女に生まれるのではない。女に育てられるのだ」というような、だれもが納得し、常識として定着するということである。だれもがそれを指針として行動できる。女性差別をやめる、という具体的な行動としてボーボワールの哲学は「共有」されるが、三島の「論理」も芥の「論理」も、そういうひろがりを獲得できない。
 それは、言い直せば、あくまで「個人限定」の「論理」であり、「個人の思想」なのだ。ひとりで生きるしかないのだ。そしてふたりはそれを生きている。(三島は、生き抜いて、死んだ。)
 この激烈な対立をわくわくしながら見ていて、ふと思ったのが「演劇」である。三島は小説以外に「演劇」を書いている。芥は(私は見たことがないのだが)、演劇をいまもつづけている。
 演劇が小説と違うところは何か。
 演劇は基本的に「過去」を語らない。小説はあとから「過去」を追加できるが、演劇は役者が出てきたら、それから起きることだけが「勝負」である。もちろん「せりふ」で実はこういう「過去」があったと言うことはあっても、それは「過去」を語らなければならない事態が発生したということにすぎない。だから、役者は舞台に登場したときに、すでに「過去」を背負っていなければならない。(存在感がなければならない。)
 そして、それぞれの人間が「過去」を背負っているにもかかわらず、舞台の上で起きるのは、その「過去」を否定して、新しい「もの」としての人間として相手とぶつかることである。芝居とは、いわば「解放区」そのもののことなのである。
 で、こう考えるとき。
 というか、こう考えて、この映画を思い出すとき、二人がいかに「演劇」としてそこに存在していたかがわかる。ふたりはそこで討論しているのではない。「演劇」の瞬間を生きているのだ。
 芥が幼い娘(?)をつれて壇上に登場する。それ自体が「演劇」だ。ほかの学生とは違って、「赤ん坊を持っている」という「過去」を背負っている。「存在感」がほかの学生と完全に違っている。彼が発することば以上に、赤ん坊が「過去」を語るのだ。しかし、芥は当然のこととして、その「過去(赤ん坊)」を無視して、ことばそのものを三島にぶつける。
 三島は、そのときすでに知られていたように「作家」という「過去」を背負っているが、そしてボディービルで肉体を鍛えているという「過去」も背負っているが、そんな「虚構」でしかない「過去」、ことばで説明するしかない「過去」では、赤ん坊という「現実」そのままの「過去」に太刀打ちできるはずがない。
 もう、それだけで三島は芥に負けているのだが、二人とも「演劇」を生きる人間だから、「存在感」の勝負はわきにおいておいて、ことばを戦わせる。あいまにタバコのやりとりというような「間」の駆け引きもみせる。
 勝利を確信した芥は、途中でさっさと姿を消す。ほかの学生にはわからなくても、三島には芥が勝った(三島が負けた)ことは明瞭だから、それでいいのだ。三島を「もの」にして、芥の「解放区」は出現した。三島のことばは破壊された机、バリケードに利用される机のように、「もの」そのものとして三島の作品から切り離され、「単発の論理」としてそこに存在するだけのものになったのだ。それは「持続」させる必要はない。瞬間的にそれが出現し、その衝撃が、ほかのひとを揺さぶればそれだけでいい。最初に書いた芥の「解放区」をそのまま、そこに実行したのだ。だから、知らん顔して赤ん坊(過去)と一緒に帰っていく。
 三島は、そういうわけにはいかない。敗北の形であれ、それは確かに「解放区」であり、それが「解放区」である限りは、三島は三島の「論理」を完結させるために、それをことばで「時間」として存在させなければらならない。これは、まあ、矛盾しているというか、悪あがきなのだが、三島がすごいのは、その悪あがきをきちんと最後まで、「演劇」でいえば、幕が下りるまで実行するところである。これは、偉い。思わず、そう叫びたくなる。
 芥が「天才」だとすれば、三島は「秀才」を最後まで生きるのである。「秀才」だから、一度自分で決めた道は決めた通りに歩かないと「実行」した気持ちになれないのだろう。それが自衛隊での自決につながる。芥は「天才」だから、何かを「実行」するにしても「規定路線」など気にしない。自分で決めた道であっても、瞬間的にそれを否定し「解放区」を新たに出現させ、「解放区」と「解放区」を断絶させたまま生きるのだ。「解放区」を持続させる人間と、「解放区」さえももう一度「解放区」にしようとする人間の生き方の違いだ。

 それにしても。
 あの時代はすごかった。ことばがことばとして生きていた。ことばをつかって「時間」を断絶、拒否するのか(芥)、ことばをつかって「時間」を持続させるのか(三島)。どちらを目指すにしろ、ことばをないがしろにしていない。
 この映画では(討論では)問題になっていないが、いま、私が聞きたいと思うのは「ことばの肉体」についてふたりがどう思うかである。しかし、こういうことは聞くことではなく、ふたりのことばを読むことで、私自身が考えなければならないことである。
 肉体がことばであるように、ことばも肉体である。そのことばの肉体を動いている「時間」はどういうものか。
 私はぽつりぽつりと考えているだけだが、まあ、考え続けたい。

(中州大洋スクリーン2、2020年03月22日)


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