谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(2)(「現代詩手帖」2010年01月号)
きのう、谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」の横書きの詩を取り上げて、最後に「つづく」と書いた。そのとき書こうとしたことは何だったのか。それをはっきり覚えているわけではない。私はいつでも「結論」へ向けて書いているのではない。何かを書きたいと思い、書きはじめ、それから何を書きたいのか探している--と、言い訳めいたことを書いてしまうのは、たぶん、一日時間が経ってしまって、そのあいだに気持ちがかわったからかもしれない。これから書くことが、きのうの「つづく」とほんとうにつながるかどうか、わからない。
「電光掲示板のための詩」について、私は、不思議・不気味、と書いた。その不気味さは、横書きよりも縦書きの部分の方がもっと不気味である。谷川はどちらを先に書いたのかわからないが、読んだ印象から言うと縦書きの方があとである。縦書きの方が、横書きのものよりはるかに不気味である。
最後が、不気味である。
最後の「声」。
私が感じている不気味さを、実は、どう説明していいか私はわからない。わからないが、「ああ いい うう」ということばを読んだとき、あ、ことばは「あ」から始まるということであり、そしてその「あ」はアルファベットの国でも同じだということにつながる。アルファベットの国といっても、私の知っているのは、英語、フランス語、スペイン語くらいだから、私の感想は間違っているかもしれない。私は言語学者ではないから、こうした感想そのものが間違っているかもしれないのだが、英語、フランス語、スペイン語でも、ことばというか「声」は「あ」から始まる。西欧のことばでは「あ・い・う・えお」ではなく「あ・え・い・お・う」かもしれないが、最初は「あ」。--そのこと、その「共通性」に、私は不思議な不気味さを感じたのだ。
ことばは「声」。ことばは「あ」から始まる。そう考えると、ことばは絶対に「声」である。口を開けて、体の奥から息を吐き出す。すると、まず「あ」になってしまう。その「あ」が何かとぶつかって、別の「音」(声)を引き出す。そうやって、ことばは始まる。どんなことばでも、それは同じだ--そのことを、ふいに、谷川の詩から教えられたのだ。
そんなことを(というと語弊があるだろうけれど)、なぜ谷川の詩から感じたのだろう。それが私には不思議であり、不気味なのだ。
縦書きの部分は、次のように始まっている。
私は、それを見たことがない。けれども、私は「聞いたことがある」と、いまなら言える。谷川の、この詩。「電光掲示板のための詩」という詩から、ことばが生まれ、芽を出すそのときの「音(声)」を聞いたことがある、と、いまなら言える。それは「ああ いい うう」という「声(音)」から始まった。
「ああ いい うう」の直前には、
とある。「ああ いい うう」は増殖し繁殖し循環し(この循環が大事かもしれない)、冒頭の「コトバはどこで生まれたのだろう」につながるのだ。増殖、繁殖の過程では、きっとヨーロッパもアジアもアフリカも横断する。そしてきっと「日本語」にもどるのだ。
「電光掲示板」のことばは、谷川が横書きの詩で書いていたように「音」がない。「声」を失っている。けれど、それはきっと見せかけ。ことばには「声」がある。「声」から出発して、それも「あ」という「声」から出発して、いま、こうして、こんなふうに動いているのだ。
そのことを「ああ いい うう」から、私は感じた。そして、そんなことを感じさせる「ああ いい うう」というのは「詩」を超えているとも思った。「詩」を超えているから「詩」なのだとも。--矛盾しているけれど、その矛盾のなかに、引き込まれてしまった。
きのう、谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」の横書きの詩を取り上げて、最後に「つづく」と書いた。そのとき書こうとしたことは何だったのか。それをはっきり覚えているわけではない。私はいつでも「結論」へ向けて書いているのではない。何かを書きたいと思い、書きはじめ、それから何を書きたいのか探している--と、言い訳めいたことを書いてしまうのは、たぶん、一日時間が経ってしまって、そのあいだに気持ちがかわったからかもしれない。これから書くことが、きのうの「つづく」とほんとうにつながるかどうか、わからない。
「電光掲示板のための詩」について、私は、不思議・不気味、と書いた。その不気味さは、横書きよりも縦書きの部分の方がもっと不気味である。谷川はどちらを先に書いたのかわからないが、読んだ印象から言うと縦書きの方があとである。縦書きの方が、横書きのものよりはるかに不気味である。
最後が、不気味である。
ああ いい うう
最後の「声」。
私が感じている不気味さを、実は、どう説明していいか私はわからない。わからないが、「ああ いい うう」ということばを読んだとき、あ、ことばは「あ」から始まるということであり、そしてその「あ」はアルファベットの国でも同じだということにつながる。アルファベットの国といっても、私の知っているのは、英語、フランス語、スペイン語くらいだから、私の感想は間違っているかもしれない。私は言語学者ではないから、こうした感想そのものが間違っているかもしれないのだが、英語、フランス語、スペイン語でも、ことばというか「声」は「あ」から始まる。西欧のことばでは「あ・い・う・えお」ではなく「あ・え・い・お・う」かもしれないが、最初は「あ」。--そのこと、その「共通性」に、私は不思議な不気味さを感じたのだ。
ことばは「声」。ことばは「あ」から始まる。そう考えると、ことばは絶対に「声」である。口を開けて、体の奥から息を吐き出す。すると、まず「あ」になってしまう。その「あ」が何かとぶつかって、別の「音」(声)を引き出す。そうやって、ことばは始まる。どんなことばでも、それは同じだ--そのことを、ふいに、谷川の詩から教えられたのだ。
そんなことを(というと語弊があるだろうけれど)、なぜ谷川の詩から感じたのだろう。それが私には不思議であり、不気味なのだ。
縦書きの部分は、次のように始まっている。
コトバはどこで生まれたのだろう コトバはいつ生まれたのだろう コトバが芽を出すのを見たことがありますか ことばの卵が孵るのを見たことがありますか
私は、それを見たことがない。けれども、私は「聞いたことがある」と、いまなら言える。谷川の、この詩。「電光掲示板のための詩」という詩から、ことばが生まれ、芽を出すそのときの「音(声)」を聞いたことがある、と、いまなら言える。それは「ああ いい うう」という「声(音)」から始まった。
「ああ いい うう」の直前には、
コトバは増殖し繁殖し循環し消え去ることがない
とある。「ああ いい うう」は増殖し繁殖し循環し(この循環が大事かもしれない)、冒頭の「コトバはどこで生まれたのだろう」につながるのだ。増殖、繁殖の過程では、きっとヨーロッパもアジアもアフリカも横断する。そしてきっと「日本語」にもどるのだ。
「電光掲示板」のことばは、谷川が横書きの詩で書いていたように「音」がない。「声」を失っている。けれど、それはきっと見せかけ。ことばには「声」がある。「声」から出発して、それも「あ」という「声」から出発して、いま、こうして、こんなふうに動いているのだ。
そのことを「ああ いい うう」から、私は感じた。そして、そんなことを感じさせる「ああ いい うう」というのは「詩」を超えているとも思った。「詩」を超えているから「詩」なのだとも。--矛盾しているけれど、その矛盾のなかに、引き込まれてしまった。
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