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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「今日はもっと」ほか

2017-10-18 19:14:16 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「今日はもっと」ほか(「SEED」45、2017年10月10日発行)

 藤維夫の作品は、どれも抽象的である。具体的なものが登場しない。固有名詞が出てこない。
 「今日はもっと」という作品。

日々の思いついた夢は何度か難渋する気配をたどる
一日の終わりは沈み込み
明日はもう閉ざされたのかもしれない
これ以上は窓は暗い

 「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」。こういう「用言」が、この作品全体をつらぬく「基調」である。固有名詞の変わりに、「用言」で全体を統一する。整える。藤が書いたというよりも、ことばが自ら書いた詩かもしれない、と思う。
 この一連目に対して、二連目の、次の一行がきびしくぶつかる。

花弁の開くしじまはいつも光って通りすぎようとしているが

 「しじま」は「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」と通い合うが、「開く」と「光って」という動詞は「通い合わない」。
 ここから始まる「乱闘(暴力)」を読みたいが、藤は、それを書かない。そこに藤の「哲学」があるのかもしれないが、私は、こういう作品を寂しく感じてしまう。「統一」を破っていくのが詩ではないのか、と思ってしまう。
 ことばを、もっとことばにまかせてしまえばいいのに、と思う。

 「早い朝」の一連目。

ことばのすみずみに風が通ってきもちいい
みんな平原まで行くと川や木や
みなれた風景を奪うのはわたしだ
旺盛に時をむさぼりさよならは遠い
なんのまねなのかしらないが
ふと鳥もはるかの高みまで疾走するだろう
ここまで生きて生かされて
あるいは絶望を知ることなく
夢はつづいていく
しあわせの痕跡の夢は残り闇の流れはつづいていく

 二行目が、私は好きだ。
 この詩の「主役(主語)」は何か、誰か。「わたし」ということばが出てくるが、私は違うものを考えたい。

みんな平原まで行くと川や木や

 この行のなかにある「行く」という「動詞」を手がかりに、私は「川」や「木」を「主語」として読んでしまう。川や木が集まってくる。「約束の場所」へ行く。そうすると、そこに「平原」があらわれる。「わたし」は平原にやってきたからこそ、川や木もやってきたのだと感じる。「やってくる」と「行く」は到達点と出発点のどちらから「動詞」を動かすかによってかわるが、結果は同じである。
 この「ベクトル」は違うのに、「同じ世界」がそこにあらわれるというのは、

ここまで生きて生かされて

 という行にもあらわされていると思う。これはさらに「夢は残り闇の流れはつづいていく」という形で言いなおされる。
 でも、これではやはり「完結(完成)」しすぎてしまうかも。破綻がなさ過ぎる。

 抽象は反芻されることで強靱になり、具体へ近づくのか、というようなことをふと思う。抽象の強固な結びつき、その透明さが、藤の「哲学の理想」なのだろう。




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