岡本勝人「続シャーロック・ホームズという名のお店」(「現代詩手帖」06月号、2007年06月01日発行)。
こういうタイトルの詩は「うさんくさい」。これは、もちろん言い意味での「うさんくさい」なのだが。
この書き出し。特に2行目の「非詩的に」の「非」。ここに「うさんくささが」集約している。詩ではない部分、「非」にこそ「詩」は存在する。「非」こそが、これからの「詩」である、というわけである。詩から除外されてきたものをことばにする。そのとき新しい「詩」がはじまる……。
テムズ川が出てくるからというわけではないが、あ、エリオットか……と思っていると、ほんとうにエリオットが出てくる。
詩のなかほど。
「歩き出したろうさ」の「さ」の孤立感。「わかるのだろう? 反論なんかするなよ」というような響きの、冷たさの美しさか。
さらに自己と風景の分離、分離のなかの「不協和音」のような「調和」。(不協和音というのは「非」音楽であり、「非」こそが新しい可能性という意味では「非詩的」の「非」に通じるものをもっている。)その「不協和音」としての「調和」の孤立、寂しさの輝き……。
「時間を食べたまま」。
ここに、この詩の主張のすべてが集約している。「時間」は「文学」(あるいは「歴史」といった方がいいかもしれないが)と同じ意味である。
そして、この作品も「文学」を食べて動いている。「文学」の約束事を守ってことばが動いてゆく。こんなにきちんと約束事を守られると、批判のしようがない。それが、この詩に対する、唯一可能な批判かもしれない。
読み終わったとき、なんといえばだろうか、岡本の作品を読んだという気持ちになれない。エリオットの作品を読んだという気持ちにもなれない。何を感じるかといえば、「文学を読んだ」という、不思議な感じなのだ。
最初に書いた「うさんくさい」は、「文学を踏み外さない」という抑制によって成り立っている、「文学」を知り尽くしていて、反論を許さないという「うさんくささ」なのである。「いい意味」で書いたが、それは「文学」を岡本が熟知している、反論を許さないほど熟知している、という意味だ。「知」に整然と磨かれ、統一されている、乱れがないという意味だ。「歩き出したろうさ」の「さ」さえ、「知」である、という意味だ。
こういう作品を読んだあとは、猛烈に噴出してくるだけのことばを読みたくなる。
こういうタイトルの詩は「うさんくさい」。これは、もちろん言い意味での「うさんくさい」なのだが。
昨日の朝から降った雨のためだろうか
テムズ川を流れる水は非詩的に濁っていた
この書き出し。特に2行目の「非詩的に」の「非」。ここに「うさんくささが」集約している。詩ではない部分、「非」にこそ「詩」は存在する。「非」こそが、これからの「詩」である、というわけである。詩から除外されてきたものをことばにする。そのとき新しい「詩」がはじまる……。
テムズ川が出てくるからというわけではないが、あ、エリオットか……と思っていると、ほんとうにエリオットが出てくる。
詩のなかほど。
エリオットだって河岸べりの青物市場跡にたたずんで
ロンドンブリッジを眺めれば
寒さのなかでコートの襟を立てて歩き出したろうさ
「歩き出したろうさ」の「さ」の孤立感。「わかるのだろう? 反論なんかするなよ」というような響きの、冷たさの美しさか。
さらに自己と風景の分離、分離のなかの「不協和音」のような「調和」。(不協和音というのは「非」音楽であり、「非」こそが新しい可能性という意味では「非詩的」の「非」に通じるものをもっている。)その「不協和音」としての「調和」の孤立、寂しさの輝き……。
テムズ川の匂いがポケットからほんのりとこぼれ落ちた
夕暮れは深い闇の都市に溶けたようだった
テムズ川はこうして黙然と時間を食べたまま流れている
「時間を食べたまま」。
ここに、この詩の主張のすべてが集約している。「時間」は「文学」(あるいは「歴史」といった方がいいかもしれないが)と同じ意味である。
そして、この作品も「文学」を食べて動いている。「文学」の約束事を守ってことばが動いてゆく。こんなにきちんと約束事を守られると、批判のしようがない。それが、この詩に対する、唯一可能な批判かもしれない。
読み終わったとき、なんといえばだろうか、岡本の作品を読んだという気持ちになれない。エリオットの作品を読んだという気持ちにもなれない。何を感じるかといえば、「文学を読んだ」という、不思議な感じなのだ。
最初に書いた「うさんくさい」は、「文学を踏み外さない」という抑制によって成り立っている、「文学」を知り尽くしていて、反論を許さないという「うさんくささ」なのである。「いい意味」で書いたが、それは「文学」を岡本が熟知している、反論を許さないほど熟知している、という意味だ。「知」に整然と磨かれ、統一されている、乱れがないという意味だ。「歩き出したろうさ」の「さ」さえ、「知」である、という意味だ。
こういう作品を読んだあとは、猛烈に噴出してくるだけのことばを読みたくなる。