水野るり子「なぜ」(「ひょうたん」38、2009年06月05日発行)
水野るり子「なぜ」に、こころをひかれる行があった。
「言葉」と「出来事」の関係に、はっとさせられた。
私たちは、何事でも(出来事でも)、「ことば」にして確かめる。詩人であってもなくても、同じだろう。ところが、そのことばが、ことばにならないことがある。「頭」のなかにははっきりといいたいことがあるのに、それが「声」にならない。
夢のなかで、何かを叫ぼうとする。そのとき、叫びたいことはわかっている。口も、その形に開く。けれど「声」にならない。「声」が出てこない。「声」が出ないまま、そこで「出来事」が起きる。
悪夢。
この瞬間を、水野は「肉体」の問題ではなく、彼女をとりまく「場」の問題にしている。そこが、おもしろいと思った。
それは、彼女の「肉体」のどこかではなく、彼女のいる「場所」のどこかである。「肉体」のどこかである場合は、「肉体」は、その「どこか」を中心にして固まってしまう。いわゆる、金縛り、のように。
水野の場合は、そんな具合にはならない。
水野は「どこか」を探して動き回っている。
そして、その水野のまわりでは、また別のものが動いている。
この、ことばの動きは不思議だ。
固まらない。硬直しない。金縛りにはならない。
夢のなかで「声」がでないとき、自分が動けないだけではなく、またほかのものも動いていない。自分に危害を加えようと迫ってくるときでさえ、何も動いていない。「声」が出ないために、何かが自由に動き回っているように感じられるけれど、その何かも、ほんとうは動かない。いつまでたっても、危害は危害にならない。たとえば、強敵に、私が殺される--という瞬間は、永遠に、「瞬間」のままとまっている。殺されてしまえば、簡単。声が出ないまま死んでいくのだが、殺されないために、永遠に、「声」がでないということに苦しむ。
ところが、水野の世界では、「言葉のきれはし」が見つからないのに、正確にいえば言葉のきれはしが落ちている場所がわからないままなのに、そのことば以外は、何事も起きていないかのように動いていくのだ。
水野を置き去りに(?)して、探していることば以外のことばは動いている。
「ものがたり」ということばがあるが、「ものがたり」とはそういう世界かもしれない。自分の「声」が出せずに苦しんでいるときでも、別の「声」が動いて、世界を描写してしまう。自分の「声」とは違った別種の「声」を発見することが、「ものがたり」を生きるということなのかもしれない。
「自分がたり」はできない。けれど「ものがたり」は動いていく。「他者」は動いていく。
水野は、どこかで、そんな「風景」を見ているのかもしれない。そういう「風景」にあこがれているのかもしれない。
「くろい犬が鼻をあげ」の「鼻をあげ」が、すごい。
これは確かに「ものがかり」のことばだ。「くろい犬」が「わたし」の思いとは無関係に、犬自身の「時間」を生きている。つまり、犬自身が「過去」を持っていて、いま、犬独自の判断で鼻をあげている。「わたし」とは無関係に。
その「のもがたり」と、いまの「わたし」をつなぐことば--そのきれはしが、どこかにこぼれ落ちてしまった。その「場所」がわからないので、「わたし」は犬の無関係な「時間」をただ受け入れるしかない。「出来事」として。
だが、ことばのこぼれ落ちた場所がわからないなら、なぜ、それでも、ここにこうして、詩が成立する? 矛盾しない? 矛盾するかもしれない。だが、矛盾するから、そこに詩がある。「なぜ」という疑問のなかに矛盾を投げ込みながら、「ものがたり」は動くのだ。
その、まだ正確には書かれていない「ものがたり」があるから、水野は生きていける。「ものがたり」への夢と、左折に似た(?)何かのあいだに、必死になってことばを探している水野がここにいる。
水野るり子「なぜ」に、こころをひかれる行があった。
ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない
夜明けの暗さのなか
出来事だけが
ゆめのなかでのように
通り過ぎる
「言葉」と「出来事」の関係に、はっとさせられた。
私たちは、何事でも(出来事でも)、「ことば」にして確かめる。詩人であってもなくても、同じだろう。ところが、そのことばが、ことばにならないことがある。「頭」のなかにははっきりといいたいことがあるのに、それが「声」にならない。
夢のなかで、何かを叫ぼうとする。そのとき、叫びたいことはわかっている。口も、その形に開く。けれど「声」にならない。「声」が出てこない。「声」が出ないまま、そこで「出来事」が起きる。
悪夢。
この瞬間を、水野は「肉体」の問題ではなく、彼女をとりまく「場」の問題にしている。そこが、おもしろいと思った。
ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない
それは、彼女の「肉体」のどこかではなく、彼女のいる「場所」のどこかである。「肉体」のどこかである場合は、「肉体」は、その「どこか」を中心にして固まってしまう。いわゆる、金縛り、のように。
水野の場合は、そんな具合にはならない。
水野は「どこか」を探して動き回っている。
そして、その水野のまわりでは、また別のものが動いている。
…さっき傘をさして
黄色い花の森をさまよっていた
あのうしろすがたはだれ…
読み残したものがたりが
どこかでまだ続いているらしい
枕もとで
羊歯色の表紙が
夜ごとめくられていくのも
そのためだ
この、ことばの動きは不思議だ。
固まらない。硬直しない。金縛りにはならない。
夢のなかで「声」がでないとき、自分が動けないだけではなく、またほかのものも動いていない。自分に危害を加えようと迫ってくるときでさえ、何も動いていない。「声」が出ないために、何かが自由に動き回っているように感じられるけれど、その何かも、ほんとうは動かない。いつまでたっても、危害は危害にならない。たとえば、強敵に、私が殺される--という瞬間は、永遠に、「瞬間」のままとまっている。殺されてしまえば、簡単。声が出ないまま死んでいくのだが、殺されないために、永遠に、「声」がでないということに苦しむ。
ところが、水野の世界では、「言葉のきれはし」が見つからないのに、正確にいえば言葉のきれはしが落ちている場所がわからないままなのに、そのことば以外は、何事も起きていないかのように動いていくのだ。
水野を置き去りに(?)して、探していることば以外のことばは動いている。
「ものがたり」ということばがあるが、「ものがたり」とはそういう世界かもしれない。自分の「声」が出せずに苦しんでいるときでも、別の「声」が動いて、世界を描写してしまう。自分の「声」とは違った別種の「声」を発見することが、「ものがたり」を生きるということなのかもしれない。
「自分がたり」はできない。けれど「ものがたり」は動いていく。「他者」は動いていく。
水野は、どこかで、そんな「風景」を見ているのかもしれない。そういう「風景」にあこがれているのかもしれない。
遠ざかるプラットホームで
くろい犬が鼻をあげ
どこまでも…わたしの顔を
追ってくる日々。
「くろい犬が鼻をあげ」の「鼻をあげ」が、すごい。
これは確かに「ものがかり」のことばだ。「くろい犬」が「わたし」の思いとは無関係に、犬自身の「時間」を生きている。つまり、犬自身が「過去」を持っていて、いま、犬独自の判断で鼻をあげている。「わたし」とは無関係に。
その「のもがたり」と、いまの「わたし」をつなぐことば--そのきれはしが、どこかにこぼれ落ちてしまった。その「場所」がわからないので、「わたし」は犬の無関係な「時間」をただ受け入れるしかない。「出来事」として。
だが、ことばのこぼれ落ちた場所がわからないなら、なぜ、それでも、ここにこうして、詩が成立する? 矛盾しない? 矛盾するかもしれない。だが、矛盾するから、そこに詩がある。「なぜ」という疑問のなかに矛盾を投げ込みながら、「ものがたり」は動くのだ。
その、まだ正確には書かれていない「ものがたり」があるから、水野は生きていける。「ものがたり」への夢と、左折に似た(?)何かのあいだに、必死になってことばを探している水野がここにいる。
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