![]() | something 6鈴木ユリイカ書肆侃侃房、2007年12月23日発行このアイテムの詳細を見る |
松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(「something 」6、2007年12月23日発行)
松尾のリズム過剰に逸脱しながらも、というか、逸脱することで「散文」であることを拒絶するリズムである。
それから
もう遠い日の影
飲みこめない氷の欠片を
そっといだいてかがんいでいる
慣らされた地はゆるやかに下降して
気づかぬうちに丘からころがる臓の内部の変転に
ひそやかな唖者の痛みをきりきりと重ねていき
逸脱の野はすでに点火しない涸れた花火に満ちていて
行き場のない荒野のようにさかしらな悪徳をかくまいつつ
こうしてひろがる不穏な地理を
背から胸へと受けとめる
何が書いてある? 主語は? 動詞は?
私にはまったくわからない。
これは「改行」の形式で書かれているから読めるのであって、「散文」の形式であればまったく読むことができない。3行目の「いだいてかがんでいる」という二つの動作の主語がまず不明である。次に「慣らされた地」という主語がでてくるが、これは「格助詞」の「は」によって主語と推測されるだけでのことであって、ほんとうに主語であるかどうかわからない。「いだいてかがんでいる」の主語と共通の主語なのかどうかもわからない。わからないまま、すぐにまた「逸脱の野」という主語も出てくる。これも「格助詞・は」によって主語と推測できるだけである。「慣らされた地」と「逸脱の野」は共通のもの中のか、対立するものなのか、それもよくわからない。「慣らされた地」と「逸脱の野」が「対句」になっているのかどうかもわからない。
そして、この作品は、そういうものがわからないことによって「詩」になっている。「詩」としてとどまっているのである。
ある一点に水をこぼす。するとその水は低い方へ流れていくが、その低い方が1か所とはかぎらない。そうすると水は四方八方へ広がりながら流れていくことになる。その流れは水の意思によるものか。そうではない。単なる偶然である。重力の働く場に身をゆだねているだけである。水はその方向を選んでいるのではなく、意思を欠いたまま流れていく。
それと同じように松尾のことばは、一種の重力にひかれるように動いていく。そこには意思というか、目的がない。目的があるとすれば、そうやって「重力」というものが世の中には存在するということを知らせる、ということだけである。
目的がなくて(あらわすべきものを最初から内包していなくて)、それでも「詩」なのか。目的がないからこそ、詩なのである。目的を拒絶し、その一瞬一瞬、純粋にことばであろうとする。そのことが詩なのである。
あふれつづける水を見る。流れても流れても尽きることのない水を見る。そのとき、あ、水は美しいなあ、と思う。(私は、思う。)その瞬間が詩なのである。松尾のことばは、水のように流れる。どこへ行くのか、さっぱりわからない。いつ終わるのかさっぱりわからない。だから詩なのである。
わからないまま、流れ、うねる。長く長くそのことばがのびるとき、水の腹がつややかに太陽の光を帯びてゆったりとなまめくのに似て、ことばの奥から不思議な艶が出てくる。それが輝いたり、輝くことで逆に目つぶしのように暗さを感じさせたりする。ようするに、きらきらする。
こうした作品は、私が引用した一部や、あるいは一編では、ほんとうの魅力を発揮しない。したがって、とても批評がしにくい。感想が書きにくい。水が知らず知らずに海にたどり着くように、松尾のことばは方々にさまよいながら、そのときどきで輝きながら、そのとぎどきでさまざまなものを映し、映すことで他者を内部にとりこみながら、最終的にひとつの場をつくりあげる。海、ではなく、「詩集」である。そのとき、あ、松尾のことばはここへ向かっていたのだ、ということがわかる。
ただし、それは、あ、ここへ向かっていたのだということがわかるだけであって、何のために? それで? と、問いはじめると、何も答えはでない。ひとが海をみても何も答えがでないのとおなじである。
ただ、そこに、そんなふうにことばを動かす力がある、ということを受け入れるか受け入れないかだけである。意味を拒絶することばを受け入れるか受け入れないかだけである。
私は、海を見ると泳ぎたくなる。松尾のことばのなかでも、ただ適当に泳ぎたくなる。泳ぎに目的はない。どこかへ行くために泳ぐのではない。ただ泳ぐ楽しさを味わうために泳ぐ。泳ぐとき、私は「意味」を拒絶している。「意味」を拒絶するとき、海はやさしく穏やかになる。松尾の詩もおなじである。「意味」を求めないとき、ことばがきらきらと輝く。「散文」では、ない、のである。