田島安江「ラクダの涙」(「something 」16、2012年12月25日発行)
田島安江「ラクダの涙」にとても美しい行がある。
人間はラクダのチーズを食べる。ラクダの子どもはチーズは食べない。母親の乳の飲む。チーズは乳からできているから人間はチーズを食べることでラクダの乳を飲んでいることになる。ラクダのチーズを食べるとき、人間はラクダの子どもになる。
そういう体験をしたあと、母親のラクダが帰ってくるのを見る。ラクダから草の匂いがする。それは草を食べたからだ、と田島は書いている。それが証拠にはラクダの肌からだけではなく乳からも草の匂いがするからだ。
あ、この乳のなかの草の匂い。
これは田島が嗅いだものだろうか。もちろん田島が嗅いだものだが、そのとき田島は人間だったのか。それともラクダの子どもだったのか。私はラクダの子どもになって乳から草の匂いを嗅ぎとっているように思える。
これがいい。
ラクダの肌から草の匂いを嗅ぎ取っているときは田島はまだ人間だ。しかし乳から草の匂いを嗅ぎ取るとき、もう田島は人間ではない。ラクダになって母の乳房の近くにすりよっている。そして草の強い匂いを嗅ぐ。そしてこのとき、実際に母ラクダの乳房にすがっている子どもラクダはラクダではなく、田島なのだ。人間なのだ。人間というより「いのち」の子どもといえばいいのか。そこには人間・ラクダという区別はなくなっている。
母親が子どもに乳をやるという動きだけではなく、草の匂いと結びつけているところがとても美しい。「いのちの子ども」というようなことばは「抽象的」なものである。だれでも考え出すことができる。そういう段階で詩をとめてしまうと、それが実際に見てきたものであっても「空想」になる。体験を自分の肉体のどの部分で引き受けたか--その「証拠」のようなものが「草の匂い」。
嗅覚は無防備である。匂いはどこからともなく突然やってくる。鼻をおさえれば匂いはしなくなるかもしれないが、そういうことができるのは匂いを嗅いでしまったあと。匂いは突然やってきて、肉体のなかに入り込む。その肉体のなかに入ってきたものを田島は忘れずにしっかりことばにしている。
なぜ「満ち足りたラクダ」と田島は書けるか。繰り返しになるが、それは田島がこのとき「人間」ではなく「ラクダ」だからである。ラクダになって満ち足りているから、そう書いてしまうのだ。そしてそのラクダは乳を飲んだ「子どものラクダ」であるだけではなく、乳を飲ませた「母親のラクダ」でもある。一度人間が人間ではなく「子どものラクダ」になってしまえば、もう「母親のラクダ」にならなくてはすまない。一度人間でなくなったものは「子どものラクダ」だけでとどまっていることはできない。ひとりで「何役」でもやってしまう。すべてが「一体」になる。
そしてその「一体(感)」は、実は生き物(動物/人間)だけではない。そのまま、そのときの「宇宙」そのものと「一体」になる。
それは「宇宙」の彼方であり、同時に「田島自身の肉体の奥」でもある。だれが呼んでいるかわからない--というのは、実はだれが呼んでいるか「知っている」ということでもある。知りすぎていて、それをことばにする必要がない。知りすぎていて、それをことばにすれば嘘になる。「声が聞こえる」だけで十分なのだ。「声」が真実なのだから、余分な「誰か」など書く必要がない。「肉体が覚えているということ」はそういうものである。
どんなに遠くにあるものでも、それは「肉体の内部」にある。つまり「肉体が覚えている」。だからこそ、それはなつかしい。「ごわごわした毛」さえ「なつかしい」。それがごわごわしているのは、ごわごわしていないと守れないものがあるからだ。そういうことも肉体は覚えている。直感的に思い出している。
「匂い(嗅覚)」「触れる(触覚)」「聞く(聴覚)」--肉体が様々に働き、様々になることでより強く「ひとつ」に戻る。そこに「宇宙」ができあがる。
このとき、当然、田島の瞳にも涙があふれる。書かない。書く必要がない。これは田島の肉体の内部の中心ですべてのことばを動かしている力だからだ。書かなければならないのはいつでも「肉体」が「覚えていて」、いま、ここに書かないことには「あらわれることができない」ことばである。「肉体」が「覚えていること」を丁寧に掘り起こし目覚めさせるのが詩の仕事である。
田島安江「ラクダの涙」にとても美しい行がある。
この草原には何もない
何もないけれど何でもある
草原の深い井戸の底から湧き出る水
地下水の湧き出るその場所で
動物たちと並んで手のひらに水を受ける
手のひらに温かいラクダの涙があふれる
草原から遠く離れたその場所で
生まれてまもないラクダの子ども同士
つながれたまま
日暮れて母の帰りを待つその場所で
わたしたち
ラクダの乳でできた固いチーズを食べる
草原の香りを食べる
星が空に満ちるのを待って
母ラクダが帰ってくる
草をたっぷり食べたラクダの肌から
草の匂いが漏れる
ラクダからしぼられる乳からも
草の匂いが漏れてくる
人間はラクダのチーズを食べる。ラクダの子どもはチーズは食べない。母親の乳の飲む。チーズは乳からできているから人間はチーズを食べることでラクダの乳を飲んでいることになる。ラクダのチーズを食べるとき、人間はラクダの子どもになる。
そういう体験をしたあと、母親のラクダが帰ってくるのを見る。ラクダから草の匂いがする。それは草を食べたからだ、と田島は書いている。それが証拠にはラクダの肌からだけではなく乳からも草の匂いがするからだ。
あ、この乳のなかの草の匂い。
これは田島が嗅いだものだろうか。もちろん田島が嗅いだものだが、そのとき田島は人間だったのか。それともラクダの子どもだったのか。私はラクダの子どもになって乳から草の匂いを嗅ぎとっているように思える。
これがいい。
ラクダの肌から草の匂いを嗅ぎ取っているときは田島はまだ人間だ。しかし乳から草の匂いを嗅ぎ取るとき、もう田島は人間ではない。ラクダになって母の乳房の近くにすりよっている。そして草の強い匂いを嗅ぐ。そしてこのとき、実際に母ラクダの乳房にすがっている子どもラクダはラクダではなく、田島なのだ。人間なのだ。人間というより「いのち」の子どもといえばいいのか。そこには人間・ラクダという区別はなくなっている。
母親が子どもに乳をやるという動きだけではなく、草の匂いと結びつけているところがとても美しい。「いのちの子ども」というようなことばは「抽象的」なものである。だれでも考え出すことができる。そういう段階で詩をとめてしまうと、それが実際に見てきたものであっても「空想」になる。体験を自分の肉体のどの部分で引き受けたか--その「証拠」のようなものが「草の匂い」。
嗅覚は無防備である。匂いはどこからともなく突然やってくる。鼻をおさえれば匂いはしなくなるかもしれないが、そういうことができるのは匂いを嗅いでしまったあと。匂いは突然やってきて、肉体のなかに入り込む。その肉体のなかに入ってきたものを田島は忘れずにしっかりことばにしている。
満ち足りたラクダは眠りに向かう
わたしはそっと
ラクダのごわごわした毛に触れる
どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる
手風琴の音色のようになつかしい
ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる
なぜ「満ち足りたラクダ」と田島は書けるか。繰り返しになるが、それは田島がこのとき「人間」ではなく「ラクダ」だからである。ラクダになって満ち足りているから、そう書いてしまうのだ。そしてそのラクダは乳を飲んだ「子どものラクダ」であるだけではなく、乳を飲ませた「母親のラクダ」でもある。一度人間が人間ではなく「子どものラクダ」になってしまえば、もう「母親のラクダ」にならなくてはすまない。一度人間でなくなったものは「子どものラクダ」だけでとどまっていることはできない。ひとりで「何役」でもやってしまう。すべてが「一体」になる。
そしてその「一体(感)」は、実は生き物(動物/人間)だけではない。そのまま、そのときの「宇宙」そのものと「一体」になる。
どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる
それは「宇宙」の彼方であり、同時に「田島自身の肉体の奥」でもある。だれが呼んでいるかわからない--というのは、実はだれが呼んでいるか「知っている」ということでもある。知りすぎていて、それをことばにする必要がない。知りすぎていて、それをことばにすれば嘘になる。「声が聞こえる」だけで十分なのだ。「声」が真実なのだから、余分な「誰か」など書く必要がない。「肉体が覚えているということ」はそういうものである。
どんなに遠くにあるものでも、それは「肉体の内部」にある。つまり「肉体が覚えている」。だからこそ、それはなつかしい。「ごわごわした毛」さえ「なつかしい」。それがごわごわしているのは、ごわごわしていないと守れないものがあるからだ。そういうことも肉体は覚えている。直感的に思い出している。
「匂い(嗅覚)」「触れる(触覚)」「聞く(聴覚)」--肉体が様々に働き、様々になることでより強く「ひとつ」に戻る。そこに「宇宙」ができあがる。
ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる
このとき、当然、田島の瞳にも涙があふれる。書かない。書く必要がない。これは田島の肉体の内部の中心ですべてのことばを動かしている力だからだ。書かなければならないのはいつでも「肉体」が「覚えていて」、いま、ここに書かないことには「あらわれることができない」ことばである。「肉体」が「覚えていること」を丁寧に掘り起こし目覚めさせるのが詩の仕事である。
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