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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子「三月 雨」

2007-04-27 21:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 小柳玲子「三月 雨」(「きょうは詩人」7、2007年04月23日発行)。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった
「お父さん サンマが」といったが聞こえなかった
父の部屋はとても遠い
長い廊下を走っていったが どの夕方も間に合わない

 「どの夕方も間に合わない」の「どの」がおもしろい。
 「窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった」ということがきょうの特別なことではない。またそれを声に出して叫ぶこともきょうに限ったことではない。父の部屋まで「長い廊下を走っていった」こともきょうだけのことではない。繰り返し繰り返しやってきたことである。つまり「日常」である。
 小柳がここに書いているようなことは、誰でもが体験することではない。いや、誰も体験しないことである、といった方がいいかもしれない。しかし、それゆえに「日常」なのだ。
 「日常」はきわめて個人的なことである。ひとりひとりの都合に合わせて私たちは生きている。他人(父さえも含める)の都合に合わせて生きているわけではない。他人(父をも含める)ももちろん小柳の都合に合わせて生きているわけではない。小柳が「サンマの顔をしたもの」を奇異に感じようが感じまいが、「サンマの顔をしたもの」は「サンマの顔をした」ままなのである。「イワシの顔」や「タイの顔」をしてくれるわけではない。ましてや「人間の顔」であってくれるはずがない。
 どうやって折り合いをつける。
 小柳は詩を書くことで折り合いをつけている。「サンマの顔をしたもの」と書くことで、小柳の「日常」のなかの理不尽なものを消化している。「お父さん」に向かって、叫ぶことによって。「父の部屋」まで長い廊下を走ることによって。--そう書くことによって。
 ここに書かれていることがらを誰かが見て、「小柳さん、それはそうじゃないでしょ」と言ってみてもはじまらない。「日常」とはもともと絶対にわかりあえない何かなのである。

裏木戸にはむらさきの大きなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い
不意に電話ボックス 廊下に電話ボックスも変だが
在るのだからしかたない

 この「しかたない」こそが「日常」だ。「サンマの顔をしたもの」も、それはそれで「しかたない」のである。「しかたない」と、存在をすべて受け入れる。「しかたない」と言って、存在するものを受け入れる。そこがおもしろい。
 「どの」存在も、「どの」時間も、「しかたない」。その積み重ねとして「日常」がそれぞれの「日常」になってゆく。そんなふうに自分をつくりかえていくという方法もあるのだ、ということを考えた。「どの」と「しかたない」には、小柳の「思想」がある。


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