蜂飼耳
「波の実」八重洋一郎
「嘆き村」(「現代詩手帖」12月号)。
再び逸脱について。蜂飼のことばは「意味」とは無関係に逸脱する。
江代充の「譲歩」も清水哲男の「なあんてね」も「意味」での逸脱である。頭に働きかけてくる。「意味」に出会って、その「意味」の気まずさに、頭がひっかかれる。どうして、ここで、こんなことばで「意味」をつくろうとするのだろうか。「意味」をはぐらかそうとするのだろうか。なぜ、そんな具合に逸脱するのだろうか。--感じるのではなく、頭で考え始める。頭で考えたことを、感情が追いかけていく。江代充も清水哲男も「抒情詩」を書いているのだが、その抒情詩は感情へ直接訴えかけてくるというよりも、頭へ訴えかけてくる。そしてそのとき、泣くのは感情(こころ)ではなく、頭である。そんな感じがする。
蜂飼のことばは頭へは訴えかけてこない。これは悪い意味ではなく、いい意味で言っているのだが、頭とは無関係なところ、肉体へ働きかけてくる。そこが非常におもしろいし、また、どんなふうにおもしろいか、説明するのが非常に難しい。説明とはたいてい頭で理解するために有効なものであって、肉体で納得するのには向いていないからである。
「波の実」で肉体に働きかけてくるのは、たとえば……。
特にその4行目。おばあさんが包丁でさばいている何か(イカだろうか)とは無関係に、つまり唐突に「坂鳥 朝越え 砂丘のにおい」という音楽が挿入される。それは「意味」になる前に、「さ」の音の入れ替わりが音楽として耳に入ってきて、その音楽が風景にかわる。
そのつづき。
烏賊をさばいて干している(干烏賊をつくっている)作業が見えてきたと思ったときに、再び「坂鳥 朝越え 砂丘の裏へ」という「さ」の音の音楽。
おばあさんや、さらに年取って海へ出ることはなくなった男(おじいさん?)が海辺で仕事をしている風景が浮かんでくる。砂丘がつくりだす坂を、朝早くから越えて浜辺へやってくるのだろうか。私の想像が正しいかどうかではなく、私の肉体の中に眠ってめざめるのをまっている朝の浜辺の労働の感覚が「さ」の音がつくりだす音楽とともに、リズムになって動きだす。
蜂飼のことばは、なんというのだろうか、みんなで共同作業をするときのリズムをあわせるための民謡(?)のような、肉体に深く根付いた何かをひっぱりだしてくる。今、ここにはないけれど、かつてだれもが体験した肉体のリズムの記憶へとことばの音楽が逸脱し、そこから再び、今、ここへもどってくることによって、私たちの肉体を元気づけるような印象がある。
八重洋一郎「嘆き村」にも似た印象がある。
葬儀とは人が集まってくる「場」である。集まってきた人は、ことばになりきれない感情のようなものを囲む。囲みながら、その感情が育っていく--つまり、私たちの肉体になじんでいくのを確かめあう。そうした「場」の共有--現代の生活が拒絶してきた近代の(?)感情のようなもの、それが肉体のなかで確かなものになっていくのを互いに見つめ合う。そうやって人間になっていく。
これは「頭」の仕事ではない。
葬儀において泣こうが泣くまいが、悲しもうが悲しまなかろうが、ひとりの死が何かにかわるわけではない--というのは「頭」の論理である。みんなで、それを取り囲み、泣いたり悲しんだりすれば、そのとき何かがかわることを肉体は知っている。感情の共有という喜び(愉悦)が、そのリズムが、人間をどこかで支えている。その力につながるものを八重や蜂飼のことばは呼吸している。頭ではとらえきれない何かへ向けて、逸脱し、そして肉体へかえってくるときの「空気」を呼吸している。
再び逸脱について。蜂飼のことばは「意味」とは無関係に逸脱する。
江代充の「譲歩」も清水哲男の「なあんてね」も「意味」での逸脱である。頭に働きかけてくる。「意味」に出会って、その「意味」の気まずさに、頭がひっかかれる。どうして、ここで、こんなことばで「意味」をつくろうとするのだろうか。「意味」をはぐらかそうとするのだろうか。なぜ、そんな具合に逸脱するのだろうか。--感じるのではなく、頭で考え始める。頭で考えたことを、感情が追いかけていく。江代充も清水哲男も「抒情詩」を書いているのだが、その抒情詩は感情へ直接訴えかけてくるというよりも、頭へ訴えかけてくる。そしてそのとき、泣くのは感情(こころ)ではなく、頭である。そんな感じがする。
蜂飼のことばは頭へは訴えかけてこない。これは悪い意味ではなく、いい意味で言っているのだが、頭とは無関係なところ、肉体へ働きかけてくる。そこが非常におもしろいし、また、どんなふうにおもしろいか、説明するのが非常に難しい。説明とはたいてい頭で理解するために有効なものであって、肉体で納得するのには向いていないからである。
「波の実」で肉体に働きかけてくるのは、たとえば……。
おばあさんが研がれた刃のやわらかさ
ふたつに割れて ざらざらと重く回る実は
だまって東と西を切り出し 切り出す
坂鳥 朝越え 砂丘のにおい
特にその4行目。おばあさんが包丁でさばいている何か(イカだろうか)とは無関係に、つまり唐突に「坂鳥 朝越え 砂丘のにおい」という音楽が挿入される。それは「意味」になる前に、「さ」の音の入れ替わりが音楽として耳に入ってきて、その音楽が風景にかわる。
そのつづき。
その先へ腰 かがめる男 さらされて
中年でも老年でもない 灼けた指で
烏賊を 大中小に分けている 選(よ)る
大は ひろげられ おとなしく干され
中は ひろげられる先から力なく丸まり
小は 待機の緊張を溶かしまだまだこれから
坂鳥 朝越え 砂丘の裏へ
烏賊をさばいて干している(干烏賊をつくっている)作業が見えてきたと思ったときに、再び「坂鳥 朝越え 砂丘の裏へ」という「さ」の音の音楽。
おばあさんや、さらに年取って海へ出ることはなくなった男(おじいさん?)が海辺で仕事をしている風景が浮かんでくる。砂丘がつくりだす坂を、朝早くから越えて浜辺へやってくるのだろうか。私の想像が正しいかどうかではなく、私の肉体の中に眠ってめざめるのをまっている朝の浜辺の労働の感覚が「さ」の音がつくりだす音楽とともに、リズムになって動きだす。
蜂飼のことばは、なんというのだろうか、みんなで共同作業をするときのリズムをあわせるための民謡(?)のような、肉体に深く根付いた何かをひっぱりだしてくる。今、ここにはないけれど、かつてだれもが体験した肉体のリズムの記憶へとことばの音楽が逸脱し、そこから再び、今、ここへもどってくることによって、私たちの肉体を元気づけるような印象がある。
八重洋一郎「嘆き村」にも似た印象がある。
真肉親子(マシシウェーカ)は
一番近いしんせき
一番やわらかい肉を食べ
脂肪親子(ブトゥブトゥウェーカ)は
あまり近くないしんせき
肉のまわりのアブラを舐める
アア ファリンドゥ ファリンドゥ
アア ファリンドゥ ファリンドゥ
棒をふりまわし鉈をふりかざし遺体のまわりを泣きさけぶ
これは
直系親族の悲しみの声
ああ
食べられてしまうねえ
ああ
食べられてしまうねえ
葬儀とは人が集まってくる「場」である。集まってきた人は、ことばになりきれない感情のようなものを囲む。囲みながら、その感情が育っていく--つまり、私たちの肉体になじんでいくのを確かめあう。そうした「場」の共有--現代の生活が拒絶してきた近代の(?)感情のようなもの、それが肉体のなかで確かなものになっていくのを互いに見つめ合う。そうやって人間になっていく。
これは「頭」の仕事ではない。
葬儀において泣こうが泣くまいが、悲しもうが悲しまなかろうが、ひとりの死が何かにかわるわけではない--というのは「頭」の論理である。みんなで、それを取り囲み、泣いたり悲しんだりすれば、そのとき何かがかわることを肉体は知っている。感情の共有という喜び(愉悦)が、そのリズムが、人間をどこかで支えている。その力につながるものを八重や蜂飼のことばは呼吸している。頭ではとらえきれない何かへ向けて、逸脱し、そして肉体へかえってくるときの「空気」を呼吸している。