『5分前』の詩集の後半の作品は、私は、どの作品も好きだ。ことばが何かを書くということに従事していない。従属していない。書きたいことが最初からきまっていて、その結論に向かってことばが動いていくというのとはまったく違った動きがある。動きながら、動きそのものを探している。
--というのは、あまりにも印象的な、印象だけを頼りにした感想だろうか。そうかもしれない。私もまた、何か、このことが書きたいと書きはじめることはない。何を書いていいかわからない。そのわからないものを探しながら書く。私の態度がそういう態度だから、田村のことばがそう見えるだけなのかもしれない。
「画廊にて」の1連目。
「悪夢」から書きはじめて、色彩にたどりつく。そのあと、田村のことばは「藤色」「緑」「赤」というような色をへて「色彩の渦動」のドラクロワの絵について語りはじめる。「シャッロゼーの遠望」というタイトルの絵。その絵のなかで、田村は、田村特有の「矛盾」を発見している。
手は「遠望」を描く。それを裏切って、「肉眼」は「アルジェの女」を描いている。この関係は、田村のことばの運動そのものである。田村のことばがそんなふうに動くから、ドラクロワの絵もそんなふうに動くのだ。ことばの動きにあわせて、ドラクロワの絵は、ドラクロワの絵であることを超越して、「遠望」から「女」への強烈なベクトルになる。
そしてベクトルとは、実は、運動というよりも、閉じ込められた運動--閉じ込められた女のような存在、とじこめられた人間の内部のことでもある。運動は存在するのではなく、運動の意思が存在するのだ。
それは「肉眼」にしか見えない「意思」である。「肉眼」にしか見えないエネルギーである。
ドラクロワの絵を見ながら、田村はムンクを思い出している。そこには「肉眼」が見た「エネルギー」が次のように語られる。
この「病気」とは、田村が用いる「逆説」である。あるいは「矛盾」である。何かしらの不都合なものを人間は人間の内部に発見する。その「何か」が自画像のすべてである。それは人間の肉体のあらゆるものが結ばれる一点にある。それはブラックホールのようにすべてをのみこみ、すべてを「いま」「ここ」ではないどこか、つまり「いま」「ここ」そのもののなかへ吐き出す。吸収し、同時に吐き出す。その矛盾したベクトル、動きの意思、可能性--どう呼んでみても正確にはいえない何かになる。
矛盾のなかに、すべてがある。
たむらは、「生そのものが病気なのだ」と書いたあと、一転して、美しい行を書いている。
ドラクロワを、あるいはムンクを見る。そのとき田村は現象としては「画廊」のなかにいる。しかし、そのとき、田村の動き回ることばは「画廊」を飛び出して、別のところにいる。「シャンロゼーの遠望」を見ながらも、実は見ていない。ほんとうは「アルジェの女たち」を見ている。いや、その絵も見ないで、「肉眼」は実はムンクの「ことば」を追っている。
そして、そこにいないからこそ、そこにしかいない。
「レインコート」の不在証明の証明、アリバイの証明の、不思議な答え(?)が、ここにある。
--というのは、あまりにも印象的な、印象だけを頼りにした感想だろうか。そうかもしれない。私もまた、何か、このことが書きたいと書きはじめることはない。何を書いていいかわからない。そのわからないものを探しながら書く。私の態度がそういう態度だから、田村のことばがそう見えるだけなのかもしれない。
「画廊にて」の1連目。
悪夢を見た
その夢にうなされて
木のベッドからぼくは暗い空間に投げ出される
朝
口笛を吹きながら
悪夢を追体験する愉しみに
濃いコーヒーをつくって飲んだ
悪夢は刻一刻と形をかえて
色彩だけが
あとに残った
「悪夢」から書きはじめて、色彩にたどりつく。そのあと、田村のことばは「藤色」「緑」「赤」というような色をへて「色彩の渦動」のドラクロワの絵について語りはじめる。「シャッロゼーの遠望」というタイトルの絵。その絵のなかで、田村は、田村特有の「矛盾」を発見している。
「遠望」はまさに無言歌そのものの
劇的な存在 人間も 動物も その影はまったく見えない
ながらかな丘陵 その前景には五、六本のありふれた灌木と草原がひろがるばかり
空には
鉛色の雲が鈍重に動いている
たぶん
ドラクロワはその瞬間
アルジェのハーレムに閉じ込められている女たちを
英雄的に描いていたのだ
手は「遠望」を描く。それを裏切って、「肉眼」は「アルジェの女」を描いている。この関係は、田村のことばの運動そのものである。田村のことばがそんなふうに動くから、ドラクロワの絵もそんなふうに動くのだ。ことばの動きにあわせて、ドラクロワの絵は、ドラクロワの絵であることを超越して、「遠望」から「女」への強烈なベクトルになる。
そしてベクトルとは、実は、運動というよりも、閉じ込められた運動--閉じ込められた女のような存在、とじこめられた人間の内部のことでもある。運動は存在するのではなく、運動の意思が存在するのだ。
それは「肉眼」にしか見えない「意思」である。「肉眼」にしか見えないエネルギーである。
ドラクロワの絵を見ながら、田村はムンクを思い出している。そこには「肉眼」が見た「エネルギー」が次のように語られる。
「芸術は自然と対立するものである。
芸術作品はただ人間の内側からだけ生まれる。
芸術は、人間の神経--心臓--頭脳--眼を通して形づくられた形象の姿」
と語ったのは北欧の画家ムンクだが
彼のテーマは「自画像」であって
病気 孤独 嫉妬 不安 病気による死 欲望 恐怖
白夜 氷の国の海と森とが
「自画像」を構成する--
病的な生があるわけではない
生そのものが病気なのだ
この「病気」とは、田村が用いる「逆説」である。あるいは「矛盾」である。何かしらの不都合なものを人間は人間の内部に発見する。その「何か」が自画像のすべてである。それは人間の肉体のあらゆるものが結ばれる一点にある。それはブラックホールのようにすべてをのみこみ、すべてを「いま」「ここ」ではないどこか、つまり「いま」「ここ」そのもののなかへ吐き出す。吸収し、同時に吐き出す。その矛盾したベクトル、動きの意思、可能性--どう呼んでみても正確にはいえない何かになる。
矛盾のなかに、すべてがある。
たむらは、「生そのものが病気なのだ」と書いたあと、一転して、美しい行を書いている。
秋がはじまって
あらゆるものが透明になるとき
ぼくは
画廊のなかにいる
ぼくは
画廊のなかにいない
ドラクロワを、あるいはムンクを見る。そのとき田村は現象としては「画廊」のなかにいる。しかし、そのとき、田村の動き回ることばは「画廊」を飛び出して、別のところにいる。「シャンロゼーの遠望」を見ながらも、実は見ていない。ほんとうは「アルジェの女たち」を見ている。いや、その絵も見ないで、「肉眼」は実はムンクの「ことば」を追っている。
そして、そこにいないからこそ、そこにしかいない。
「レインコート」の不在証明の証明、アリバイの証明の、不思議な答え(?)が、ここにある。
陽気な世紀末―田村隆一詩集 (1983年)田村 隆一河出書房新社このアイテムの詳細を見る |