監督 ペドロ・アルモドバル 出演 エマ・スアレス、アドリアーナ・ウガルテ、ダニエル・グラオ
アルモドバルの映画を見ていると、スペイン人はみんなドン・キホーテなのか、と思ってしまう。個人(主義)のあり方が、イギリスやフランスとは明らかに違う。スペイン人は、私の個人的な印象ではとても気さくで人なつっこい。しかし、その対人的な印象とはまったく逆に不思議な狂気を持っている。みんなが「個人のストーリー」に固執する。ドン・キホーテが「遍歴の騎士」というストーリーに固執して周囲をひっかきまわすのと同じように、登場人物が「自分のストーリー」に夢中。他人と触れ合っても「自分のストーリー」でしか世界を見ない。
最初のエピソード。アドリアーナ・ウガルテが列車に乗っていると、男が「席は空いているか」。男は女と話したいのだが、女は拒む。そのあと、男が列車のいったん停車を利用して(?)飛び込み自殺をする。女は「男が自殺したのは、自分が会話を拒んだからじゃないだろうか」と思い悩む。思い悩んでも、まあ、別にかまわないのだけれど、その「空想のストーリー」に別な男をひきずりこむ。この強引さが、ドン・キホーテがサンチョ・パンサを「遍歴の騎士」というストーリーに引きずり込むのとそっくりである。
男は男で「女のストーリー」に引き込まれながらも、「女のストーリー」を「女を求める男」という「ストーリー」に転換する。「男が女を求める(女を求めることを我慢できない)」というストーリーには、雪野を走る雄鹿のストーリーも重なる。雄鹿は列車に並走して走る。それは「雌」の匂いを列車の中にかぎつけたからだ、というストーリーが。そして、実際にセックスがはじまる。
このセックスシーンが、とてもいい。アルモドバルならではの「幻想」が美しい。騎乗位の女の裸体が列車の窓ガラスに映る。外が暗いから。半透明の裸の向こう側の荒野が動く。不鮮明な映像が、雄鹿が列車の内部をのぞきながら並走しているよう見え。
ここで、この映画に、夢中になってしまう。
このあと、映画は「男は女を求めることをやめることができない、だれとでもすぐにセックスをしたがる」というストーリーを狂言回しのように利用しながら、女の別のストーリーが語られる。女の本質に迫るストーリーが。
「男が女を求めずにいられない」というストーリーを生きるのだとしたら、女の「定型ストーリー」は何だろうか。「こどもを愛さずにはいられない」というストーリーである。女は男なしでも生きられるが、女はこどもなしでは生きられない。
主人公ジュリエッタは男に誘われてリスボンへ引っ越す予定だったが、昔わかれた娘の話を聞き、娘がもどってくるとしたらマドリッド以外にない。そう思い、マドリッドを離れるのを拒む。詳しい事情は話さず、ただかたくなに「自分だけのストーリー」を生きる。
こんなに娘を愛しているのに、なぜ、娘は私を捨ててどこかへ消えてしまったのか。さびしくてたまらない。娘の「ストーリー」のなかで私はどんな人間なのか。
娘の「ストーリー」のなかで、母親はどんなふうに生きているか。父親は漁に出て嵐の日に死んだ。事故死だが、原因は母親が父とけんかしたからだ。けんかの原意は父の女癖にあるのだが、娘は父親の女癖の被害者(?)ではないので、女(母親)には同情しない。死んでしまった父を愛するがゆえに、母を憎み、離れていく。「母が父を殺した」というのが娘の「ストーリー」。
食い違う「ストーリー」をどうやって「統合」するか。
ここからがアルモドバル味かなあ。母と娘が直接あって「和解」するわけではない。ここがアメリカ映画と大きく異なる。マドリッドの自宅に娘から手紙が届く。娘は息子を事故で失う。こどもを失って、母の悲しみを知ったと書いてある。同じ「ストーリー」を生きることで、母のことを思い出した。「愛する」という行為のなかで「和解」する。母は手紙の住所を頼りに娘に会いに行く。
この「ストーリー」を「女は愛するときに女になる(そして女同士和解する)」というふうに読み変えると、映画のなかで繰り広げられた「三角関係」の「克服」がわかりやすくなる。
男(父)は主人公のジュリエッタ(エマ・スアレス、アドリアーナ・ウガルテ)とは別に恋人(インマ・クエスタ)がいた。二人は男を失った悲しみのなかで「和解」する。友人になる。愛するがゆえに、なんでも受け入れてしまうという人間に生まれ変わる。だからこそ、こんなに愛しているのに、なぜ娘は自分のもとから離れていくのか、という悲しみが強烈になるのだけれど。
そう気づいた瞬間に、この映画は記憶のなかで、強烈に動き始める。「結論/結末」に感動するというよりも、「結末」がそれまで見てきたものを鮮やかに思い出させるという映画である。見ながら楽しむというよりも、見終わったあと思い出し、語るための映画といえるかもしれない。「文学的」である。その「文学味」を強烈な色と絵で隠すのがアルモドバルの、もうひとつの個性だね。
最初に書いたスペイン人の人なつっこさと「個人のストーリー」への固執という「矛盾」のような問題を考え直してみると……。
「個人ストーリー」に固執するからこそ、他人の「個人ストーリー」と自分の「個人ストーリー」の重なる部分を見つけ出し、「私たちは同じ人間」という気持ちになろうとしているのかもしれない。「共通項」を探し求める熱心さが「人なつっこさ」になっているのかもしれない、と思ったりする。
スペイン人を評価することばに「シンパティコ/シンパティカ」ということばがある。「シンパシー」と語源が重なるかもしれない。「共感」。「共」は「個人的ストーリー」の「共通」の「共」。「個人的ストーリー」を積極的に語り合い、「共通するもの」を探そうという思いから生まれているのかもしれない。
(KBCシアター2、2016年12月18日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アルモドバルの映画を見ていると、スペイン人はみんなドン・キホーテなのか、と思ってしまう。個人(主義)のあり方が、イギリスやフランスとは明らかに違う。スペイン人は、私の個人的な印象ではとても気さくで人なつっこい。しかし、その対人的な印象とはまったく逆に不思議な狂気を持っている。みんなが「個人のストーリー」に固執する。ドン・キホーテが「遍歴の騎士」というストーリーに固執して周囲をひっかきまわすのと同じように、登場人物が「自分のストーリー」に夢中。他人と触れ合っても「自分のストーリー」でしか世界を見ない。
最初のエピソード。アドリアーナ・ウガルテが列車に乗っていると、男が「席は空いているか」。男は女と話したいのだが、女は拒む。そのあと、男が列車のいったん停車を利用して(?)飛び込み自殺をする。女は「男が自殺したのは、自分が会話を拒んだからじゃないだろうか」と思い悩む。思い悩んでも、まあ、別にかまわないのだけれど、その「空想のストーリー」に別な男をひきずりこむ。この強引さが、ドン・キホーテがサンチョ・パンサを「遍歴の騎士」というストーリーに引きずり込むのとそっくりである。
男は男で「女のストーリー」に引き込まれながらも、「女のストーリー」を「女を求める男」という「ストーリー」に転換する。「男が女を求める(女を求めることを我慢できない)」というストーリーには、雪野を走る雄鹿のストーリーも重なる。雄鹿は列車に並走して走る。それは「雌」の匂いを列車の中にかぎつけたからだ、というストーリーが。そして、実際にセックスがはじまる。
このセックスシーンが、とてもいい。アルモドバルならではの「幻想」が美しい。騎乗位の女の裸体が列車の窓ガラスに映る。外が暗いから。半透明の裸の向こう側の荒野が動く。不鮮明な映像が、雄鹿が列車の内部をのぞきながら並走しているよう見え。
ここで、この映画に、夢中になってしまう。
このあと、映画は「男は女を求めることをやめることができない、だれとでもすぐにセックスをしたがる」というストーリーを狂言回しのように利用しながら、女の別のストーリーが語られる。女の本質に迫るストーリーが。
「男が女を求めずにいられない」というストーリーを生きるのだとしたら、女の「定型ストーリー」は何だろうか。「こどもを愛さずにはいられない」というストーリーである。女は男なしでも生きられるが、女はこどもなしでは生きられない。
主人公ジュリエッタは男に誘われてリスボンへ引っ越す予定だったが、昔わかれた娘の話を聞き、娘がもどってくるとしたらマドリッド以外にない。そう思い、マドリッドを離れるのを拒む。詳しい事情は話さず、ただかたくなに「自分だけのストーリー」を生きる。
こんなに娘を愛しているのに、なぜ、娘は私を捨ててどこかへ消えてしまったのか。さびしくてたまらない。娘の「ストーリー」のなかで私はどんな人間なのか。
娘の「ストーリー」のなかで、母親はどんなふうに生きているか。父親は漁に出て嵐の日に死んだ。事故死だが、原因は母親が父とけんかしたからだ。けんかの原意は父の女癖にあるのだが、娘は父親の女癖の被害者(?)ではないので、女(母親)には同情しない。死んでしまった父を愛するがゆえに、母を憎み、離れていく。「母が父を殺した」というのが娘の「ストーリー」。
食い違う「ストーリー」をどうやって「統合」するか。
ここからがアルモドバル味かなあ。母と娘が直接あって「和解」するわけではない。ここがアメリカ映画と大きく異なる。マドリッドの自宅に娘から手紙が届く。娘は息子を事故で失う。こどもを失って、母の悲しみを知ったと書いてある。同じ「ストーリー」を生きることで、母のことを思い出した。「愛する」という行為のなかで「和解」する。母は手紙の住所を頼りに娘に会いに行く。
この「ストーリー」を「女は愛するときに女になる(そして女同士和解する)」というふうに読み変えると、映画のなかで繰り広げられた「三角関係」の「克服」がわかりやすくなる。
男(父)は主人公のジュリエッタ(エマ・スアレス、アドリアーナ・ウガルテ)とは別に恋人(インマ・クエスタ)がいた。二人は男を失った悲しみのなかで「和解」する。友人になる。愛するがゆえに、なんでも受け入れてしまうという人間に生まれ変わる。だからこそ、こんなに愛しているのに、なぜ娘は自分のもとから離れていくのか、という悲しみが強烈になるのだけれど。
そう気づいた瞬間に、この映画は記憶のなかで、強烈に動き始める。「結論/結末」に感動するというよりも、「結末」がそれまで見てきたものを鮮やかに思い出させるという映画である。見ながら楽しむというよりも、見終わったあと思い出し、語るための映画といえるかもしれない。「文学的」である。その「文学味」を強烈な色と絵で隠すのがアルモドバルの、もうひとつの個性だね。
最初に書いたスペイン人の人なつっこさと「個人のストーリー」への固執という「矛盾」のような問題を考え直してみると……。
「個人ストーリー」に固執するからこそ、他人の「個人ストーリー」と自分の「個人ストーリー」の重なる部分を見つけ出し、「私たちは同じ人間」という気持ちになろうとしているのかもしれない。「共通項」を探し求める熱心さが「人なつっこさ」になっているのかもしれない、と思ったりする。
スペイン人を評価することばに「シンパティコ/シンパティカ」ということばがある。「シンパシー」と語源が重なるかもしれない。「共感」。「共」は「個人的ストーリー」の「共通」の「共」。「個人的ストーリー」を積極的に語り合い、「共通するもの」を探そうという思いから生まれているのかもしれない。
(KBCシアター2、2016年12月18日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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