詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中堂けいこ「虫穴」

2013-03-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中堂けいこ「虫穴」(「縞猫」22、2013年春発行)

 中堂けいこ「虫穴」は行分けで書かれているが、ことばの運動は散文的である。

虫は栗の実の中で
自身の穴を食んで
形を残す 一日分
次の日は少しずらして体分の穴を食む
およそ一週間で栗は食いつくされ黒い渋皮が残る
わたしが食べるあなは一坪に実る籾米
両手で三掴みの白米を口にするとき
わたしの体分の穴を一坪の田畝に見立てる
明日も生きるとしたら隣の一坪を食い尽くす
一年生きるとしたら一反の田畝が産む熱量が必要だ

 ある事実をことばで再現する。栗の実と栗の実を食っている虫の関係を調べ、わかったことを「事実」とする。つぎに、その「事実」を別の対象を考察するのに利用する。そして、「頭」のなかで論理を動かす。仮説を立て(見立てる)、それを論理にしたがって押し進める(……としたら……になる)。そういう構造で、ことばが動く。
 このとき「事実」とは、実は「関係」である。
 栗の実を虫が食べる。そこには栗の実と、それを食べる虫の関係がある。一日に自分の体分だけ食べる、食べられて栗の実はその分だけ減るという関係。この関係を人間と米との関係、米を生み出している田んぼとの関係に置き換えて、論理を進めていく。
 栗の実という「もの」は次々に変化する。食べられてだんだん減っていく。しかし、そこには変わらない「こと」がある。食べられた分だけ減る、という「こと」。その、決して変わらぬ「こと」が関係。
 それが「変わらない」から、それを利用して、ことばを動かし(頭を動かし)、変わっていく「もの」を描き出す。人間が一日一坪の米を食べるなら、一年で一反の米を食べる、という具合に。
 この号には「関係性について」という散文詩もあるが、「関係」を抜きにして、中堂のことばは動いていかない。動けない。そこに中堂の詩の特徴(ことばの運動の特徴)がある。
 で。
 こういう「変わらない関係」を利用して、推論し、結論するという散文(論理)の運動が詩であるのは、どうしてか。
 この質問(疑問)の立て方は少し強引かもしれないけれど--その強引を押し切って進めていくと、「見立てる」ということばに逆戻りする。
 栗と虫の関係。それを米と人間の関係に「見立てる」。より正確にいうと「見立てなおす」。そこにある「こと」を利用して、そこに「ある」けれども直接見ることのできないものを「見える」ようにする。それが「見立てる」ならば、そこには一種の「飛躍」がある。栗=米、虫=人間ではないのだから、その同じものではないものを同じもののように考えるというのは、少し、変である。(この変は、「論理学」からは変ではないと言われるだろうけれど。)
 このとき、「関係」という、それ自体は直接見えないもの(見えないこと)が利用されている。見えないものを利用して、見えないものを見えるようにする。そして、その見えるようにする「もの」は、必ず実際に存在する「もの」であること、肉体が知っているものであるというところが、詩なのかなあ。
 見えないものを追いかけ、見えないことを書いているのに、それが見える。それは「見立てる」というところから出発している。
 あ、なんだか、ややこしいというか、まだるっこしいことを書いている。
 言いなおすと、人間が一年でどれだけの「熱量」を消費するかというのは見えない。栗を食って生きる虫が一週間でどれくらいの栗を必要とするかは見えるけれど(観察できるけれど)、それと同じように人間が一年で消費する「熱量」は見えないのだけれど、それを米、田んぼという具合に、肉体が知っているもので「見立て」つづけると、その総量が「田んぼ」の面積として見えてくる。あくまで肉体で「見える」ものを把握するために「見立てる」という行為がある。
 肉体が知っている「もの」にこだわって、「こと」を明らかにしようとする。単に消費カロリーの計算なら、「三掴み」「口にする」「一坪の田畝」という「具体」は不要である。しかし、中堂は、追い求めている「関係」の先にあるものを「具体」を動かしてつかみとる。
 「見立てる」は「関係」を「見える」ように維持しつづける持続力のようなものである。「関係」を「肉体」にする力である。--というのは、まあ、私の「感覚の意見」なのだけれど。
 脱線した。

 「見立てる」ということが、実際に動く「肉体」、「肉体」にふれる「もの」との接続の維持・持続であるから……。

この国が何人もの人を飢えさせないとしたら
一億反の田んぼで食う人々が這いつくばって
苗つくり草取り田植え草取り水分け草取り肥えやり草取り虫よけ
鳥よけ雷よけ草取り水喧嘩畝張り草取り案山子も作りやっと稲刈り
稲干し脱穀藁詰め精米 わたしの口へ口へまた一年

 はてしなく繰り返される農作業(草取りが何度も繰り返されている)が、その「関係」のなかに結晶してくる。「結論」ではなく、「論理」が動いた過程が、抽象ではなく、具体として、つまり肉体を持ったものとしてぎゅっと詰まってくる。「見立てる」という動きが、そこに人間を一瞬の内に見る。
 こういう「こと」は、誰でもが一瞬のうちに「見る」ものである。けれど、それをもう一度見ようとするとなかなか見えない。ことばにならない。それを中堂は、この作品では丁寧にとらえている。
 他の作品では「関係」を動かすことに忙しくて、「結論」にむかってことばが動きすぎて、この「関係の内部」での肉体の結晶が見えにくいのだが、「虫穴」は、その論理のスピードが振り落としたものをしっかりつかんでいる。「見立てる」ということばが、知らず知らずにそれを引き出したのだと思う。





枇杷狩り―中堂けいこ詩集 (詩と思想新人賞叢書 (01))
中堂 けいこ
土曜美術社出版販売

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