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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「しゃがむ」

2009-12-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「しゃがむ」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)

 きのう、谷川俊太郎の「ホルンのこだま」について触れた。そして、最後に、

 「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。

 と書いた。この最後の部分はちょっと説明不足だった。というよりも、そのことばを書いたとき、私は意識のどこかで、「しゃがむ」という詩を思い出していたのかもしれない。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

ぼくにはなまえがある
でもぼくはだれでもない
ただいきているだけ

いまぼくはたんぽぽみたい
みみずみたい かまきりみたい
ちょうちょみたい とべないけど

みちばたでぼくはたちあがる
そしたらにんげんになった
りんごかじりたくなった

 「にんげんになった」は正確には(?)人間にもどった、だろう。
 「ぼく」から「きもち」が出て行って、「ホルンのこだま」で「ぼく」が「かわになった」ように、この詩では「ぼく」は「たんぽぽ」「みみず」「かまきり」「ちょうちょ」になった。けれども、たんぽぽもみみずもかまきりもちょうちょも、どこへもたどりつけず、「ぼく」にもどってきた。「孤独」な旅を終えてもどってきた。そのとき、たんぽぽ、みみず、かまきり、ちょうちょが抱えてもどってきた「孤独」--それがそのまま「ぼく」の「孤独」にいままでとは違った影を、陰影を、あるいは輝きかもしれないが、なにかしらの変化をもたらす。それを受け入れるために、「ぼく」は「にんげん」に「なる」しかないのである。
 「ぼく」は「ぼく」に「なる」。けれど、その「ぼく」は「それまでのぼく」とは少し違っている。あるいは、まったく違っている。その「ぼく」は「それまでのぼく」につながっているだけではない。「それまでのぼく」とだけつながっているのなら、「にんげんになった」ではなく「ぼくにもどった」と正確に書くことができる。
 でも、「ぼくにもどった」のではない。
 「旅の孤独」「孤独な旅」をかかえてもどってきたとき、「ぼく」は、そういう旅をする「ぼく以外の他者」ともつながってしまう。「ぼく以外の他者」、ただし、同じ孤独な旅、旅の孤独を知っている「他者」とつながりながら、そういう旅の孤独を知っているひとを「にんげん」と呼び、その「にんげんになった」。「にんげんになる」。

 谷川にとって、「なる」ことが「ある」ことなのである。
 「かわ」になる。「たんぽぽ」になる。「かまきり」になる。「なる」はまた「旅」することであり、それは「孤独」を知ることでもある。「孤独」を知り、「孤独」同士が結びつく。ただし、この結びつきは、離れたままの結びつきである。離れたままの結びつきというのは矛盾表現だが、「肉体」そのものは離れて別々のところにあるが、孤独は互いを呼び合っている。そういう結びつき。離れていないと呼び合うことはできない。そういう結びつき。そういう呼び合うことができるということが、たぶん、人間の証なのだ。時空を超えて呼び合うのだ。そういうことができるように「なった」とき、できるように「なる」とき、谷川は谷川として「ある」。そしてその谷川は谷川ではなく、「詩人」という普遍的な存在である。谷川という個別の肉体をもちながら、その内部で「普遍」になる。

 あ、こんなことは、書いてもつまらないね。
 あ、いや、正直に書こう。きのうの「日記」を書いたとき、いま書いたようなことを書こうと考えていた。そして実際に書いたのだけれど、書きながら私は実はほかのことが気になっていた。もっと違うことを書きたい、と詩を引用した瞬間に思ったのだ。
 以下は、その、急に思い立ったことがら。
 (私はいつでも結論も、論理の組み立て?も考えずに、ただ書きはじめる。だから、この詩はおもしろいと思って書きはじめながら、最終的にとてもつまらないと書いたり、逆に否定するつもりで書きはじめて、そうではなくとんでもない傑作なのだと気づき、そう書くこともある。そういうときも、私は書き直しはしない。ただ、書きすすめるだけである。)

*

 この詩でおもしろいのは、「なる」ということばの、そういう面倒くさい(?)働きよりも、実は、最初の3行かもしれない。
 いや、そこにも「なる」がほんとうは書かれている。どこにも書かれないないが「なる」がある。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

 「ぼく」の様子がただ書かれているだけ--というのは、表面的にはそうである。でも、その表面的なことがらを超えて、私は「誤読」する。ここに、谷川の「肉体」を見てしまう。「たんぽぽ」になり「ちょうちょ」になり、そして「ぼく」にもどり「にんげん」になった「孤独」よりも、もっと生々しい「肉体」、むきだしの「肉体」を感じてしまう。

みちばたにぼくはしゃがんでいる

 こう書き出したとき、谷川はまだ何を書いていいかわからないでいる。(こういう「断定」を「誤読」というのだが、こうやって「誤読」するのが、私の趣味である。癖である。)何を書いていいかわからないから、1行目をくりかえす。言いなおす。「ひとりでしゃがんでいる」。それでも、谷川はまだ「ぼく」になれない。まだまだ大人の谷川、詩人ではなく、詩を書きはじめたばかりの谷川である。そして、もう一度「しゃがんでいるだけ」と書いてみる。
 ことばをくりかえす。そうすると、そのことばが「肉体」を整える。「肉体」が少しずつ、「しゃがんでいる」こどもにもどっていく。そして、「肉体」がこどもにもどってしまうと、そこからことばが動きはじめる。

ぼくはなにもしていない

 これは「しゃがんでいる」を「内側」からみつめたことばである。「外側」から見れば「なにもしていない」わけではない。なにもしていない、ということは、まあ、ありえない。外側から見れば「しゃがんでいる」。「肉体」の形をそういうふうに描写できる。
 けれど、なにもしていない。
 これは、「こころ」「きもち」が何もしていないということだ。

 この、「肉体」から「こころ」「きもち」への切り替え、そのために、まず谷川は「肉体」そのものを「しゃがませる」。ことばが「肉体」に働きかけ、「肉体」がことばを完全に反芻し終えたとき、その「肉体」が自分自身のことばを語りはじめる。
 そういう変化を引き起こすための、最初の3行。
 それは、2連目に取り込んでしまって、次のように書きはじめてもよかったはずである。

みちばたにしゃがんで、ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

 1行目は少し長くなるけれど、そう書いても詩全体の「意味」はかわらない。「意味」はかわらないけれど、谷川はそんなふうには書かない。長い1行目、ことばがなんとなく未整理でうるさいのは、私がかってに書き換えたからで、谷川自身がかきなおせばもっと自然な行になるだろうけれど、たとえそうであっても、谷川はそんなふうには書かない。いや、書けない。
 詩は「意味」ではないからだ。「意味」を書くものではないから、きょうの日記の前半で、私が書いたような「なる」だの「ある」だのは、まあ、どうでもいいことなのだ。

 谷川は、どうなふうにして「こども」の「ぼく」になったか。
 想像力を働かせて、記憶をたどって……ということはできるが、私は、ことばをくりかえすことでと言いたい。
 何が書けるかわからない。何が書きたいか、わからない。
 そういうとき、谷川は、まず書けることばを書き出す。そして、それを繰り返し、自分の「肉体」になじませる。ことばが「肉体」に形をあたえる。「肉体」がしゃがんで、それをことばが「しゃがんでいる」と描写するのではない。「しゃがんでいる」ということばがまず最初にあり、それを「肉体」が描写するのである。
 谷川のことばは、いつでも、そういう運動の形をとる。
 何かがあり、それをことばが描写するのではない。何かがあって、それをことばが描写しているように見えても、実は、ことばが書かれ、それを実際のものごとが描写するのである。
 名作「父の死」でも同じだ。父・谷川徹三が死ぬ。そして葬儀がある。そういう一連の現実をことばで描写しているのではない。逆なのだ。ことばが書かれ、それを現実が描写しているのだ。--これは、そんなことはありえない、と反論がありそうだけれど、実際に、そうなのだ。ことばが書かれ、それにあわせて現実が整えられていくのだ。そういう逆転したことが文学と生活のなかでは起きる。
 大江健三郎の私小説でも同じである。大江の生活があり、それをことばが描写しているだけではない。ことばが書かれることで、生活が整えられていく。整理しなおされ、生活が美しく動きはじめる。
 「父の死」のそれぞれの1行は、現実をもとにして出発しているけれど、いったん出発してしまうと、ことばが現実に働きかけ、現実を整え、美しく動かしはじめる。

 「しゃがむ」の書き出しは、そういう谷川とことば、現実のあり方を映し出している。谷川は「ぼく」という少年を描写しているのではない。谷川の少年を描写することばは谷川の「肉体」に働きかけ、谷川を「少年」に整え(?)、そこから少年の現実を動かしはじめる。常にことばが現実を美しく動かしていく。
 この運動のなかにある、書かれていない「なる」こそ、谷川の詩のいのちかもしれない。



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