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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「それはそれはそれは」

2008-07-02 23:32:56 | 詩(雑誌・同人誌)
 藤維夫「それはそれはそれは」(「SEED」15、2008年05月15日)
 藤の詩にはいつも静かな思考がある。思考の詩だけれど、「頭」で書いた詩ではない。それが魅力だ。
 「それはそれはそれは」の中ほど。

陽にかざして見ている空虚な部屋で
考え事が先だった
孤独の固まりに齧りついて
もう死んだように眠るしかない
夢のなかは水平線が再生されて
また汽船が走って行く
それはそれはそれは
美事な映画のようだ

 「考え事が先だった」。この不思議な断定に、私は震える。ある対象があり、あるいはある存在があり、それについて後から「考え」がやってくるのではない。まず「考え」がある。
 「考え事が先だった」。そして、これほど悲しいことばはない。まず考えがあって、それから「世界」が見えてくるというのは、とてもつらい。「世界」は考えに汚れてしまっていて、もう取りかえしがつかない。
 1連目、書き出しに戻る。

なにを見ても悲しい
そんな不能な生き方がある
そのひとは朝が来れば起き
食事をとるにはとる
いびつな姿勢だから
不運に見えて さらにつらく悲しそうだ

 「悲しみ」ということばが直接出てくる。この「悲しみ」は「感情」であるけれど、もう「感情」を突き破ってしまっている。そして「悲しみ」という「考え」になっている。「感情」は動かないのだ。「感情」は「考え」になってしまって、簡単には揺り動かされない。「悲しみ」が動く(たとえば、解消する、喜びや笑いにかわる)とすれば、それは「考え」を通過して、つまり「論理的」に動いていくしかない。
 それを藤は「不能」と呼んでいる。

 こんなとき、ひとは、どんなふうに解放されるのだろうか。

 「眠り」と「夢」。それは「考え」を裏切って動く精神である。眠って、夢を見て、意識的には動かすことのできない何かを身をまかせるしかない。「悲しみ」が「考え」にまでなってしまったら、たしかにそんなふうに「考え」を中断するしかないかもしれない。 その「夢」に汽船が走っていく。

それはそれはそれは
美事な映画のようだ

 「それはそれはそれは」と3回繰り返す。繰り返して、確かめている。「中断」、「考え」の停止。その瞬間の「美」。

プロデュースするかたわらで
清浄な生死を急ぐことはない
きっとゆっくりゆっくり

 末尾の3行。たしかにそうなのだろう。「中断」に身をまかせる。急ぐことはない。「中断」が運んできてくれる「無意識」。そこに、再生の力がある。--藤は、いま、そういうところにいるのだろう。

 「SEED」15の作品は、どれも悲しい。悲痛な声がする。どう感想を書いていいのか、私には実のところよくわからない。私に悲しんでいるひとに声をかけることが苦手である。
 読みました。読んで、時間が経って、ようやく少しだけ、何か言いたくなった。でも、何も言えない--あらためて、そう思った。そのことだけを伝えたい。とてもとてもとても悲しい詩だ。



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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お礼 (れおれお6745)
2008-07-07 07:19:18
ますます宿命や運命とかメビユウスの迷路にとらわれることばかり、それを水の流れのように自然のままに生きられればよいと思っています。

ありがとうございました。

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