詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上未映子『水瓶』

2013-02-01 23:59:59 | 詩集
川上未映子『水瓶』(青土社、2012年10月10日発行)

 詩は、どこにあるか。この問いは、「詩は、どこ(何)からはじまるか」と言いなおすことができる。川上未映子『水瓶』は、「詩は、ことばからはじまる」というだろう。 詩集の「帯」に、

少女はことばと出会い、/ことばとたわむれ、/ことばを食べ、/ことばを吐き、/ことばに乗り、/ことばと踊り、/ことばを操り、/ことばに操られ、/ことばに飽き、/ことばと別れ、/ことばと再会し、/ことばを愛し、/ことばを生き、/そして、/ことばを生みだしつづける……。

 と書いてあるが、この帯の「定義(?)」が川上の詩のすべてを語っている。ほかに何を書いても、この帯以上の表現はないだろう。
 そう知っていながら、私は、ちょっと書いてみたい。「戦争花嫁」。

 ある女の子が歩いているときに、不意に戦争花嫁がやってきて、それ
はいつもながらさわることも噛むこともできない単なる言葉でした。な
のでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば唇がなんだか心地よく、
豪雨の最中だというのに非常な明るさの気分がする。

 「帯」に書いてあったように、川上は「戦争花嫁」という「ことば」に出会った。それが「やってきた」。それで、その「ことば」を「つかまえて」、「口にしてみる」(声に出して「たわむれて」みる)。そうすると楽しい(豪雨なのに明るい気分)。
 「帯」に書いてあるとおりだねえ。
 でも、「帯」が書き漏らしていることもある。字数の制限があって、書かなかっただけ、ということかもしれないが、その「帯」には書いていないことを、ちょっと書いてみたい。
 私が最初に川上の詩の特徴をあげるなら、「ある女の子が歩いていたときに、」の「ある女の子」。さらにいえは、その「ある」。
 この「ある」って何? 特別な少女というか、「女の子」のことを知っているひとが発することばではないね。少女を知っているひとなら「ある女の子」とは言わない。つまり「知らない女の子」、川上によって知られていない女の子がこの詩の「主人公」である。
 でも、その「女の子」のことを川上は知らないし、「文法」の上では川上は「女の子」ではない。それなのに、その後のことばは「女の子」が「主語」になっている。「さわることも噛むこともできない」のは「女の子」がそうすることができないという意味である。
 「女の子」のほかに「語り手」がいて、その「語り手」が「女の子」にかわってことばを動かしている。
 そうであるなら、「帯」の「少女」は「少女」ではなく、「川上」にすればいいのに。そうして詩の「ある女の子」も「私(川上)」にしてしまえばいいのに……。
 でも、そうすると違っていることがある。
 「ある女の子」の場合、その「女の子」を川上は知らないのだから、何を書いてもそれは「虚構」であって「嘘」にはならない。「私」の場合は、感じていないこと、思っていないことを書いてしまうと「嘘」になる。--この「虚構」と「嘘」の定義(?)は、まあ、私の「感覚の意見」であって、正確にはどう書いていいのかわからないのだけれど。
 そしてこの「虚構」。それは「現実」ではない、ということだね。で、「現実ではない」ものが「虚構」ならば……。ことばは? ことばは「もの」のような「実在(現実)」ではないね。ことばも一種の「虚構」? 言語学者ではないので、このあたりの定義は私はいいかげんに書いているのだが、--「虚構」のなかで「女の子」と「ことば」が、そこで「おきている/こと」として重なる。
 「現実」そのものなのなかで起きているのではなく、「ことば」という一種の「虚構」のなかで起きている「こと」を書いている--それが、この書き出しからわかる。
 で、こういう書き方ができるのは(というようなことをわざわざいわなくても、そういうやり方を多くのひとがしているのだけれど--それをあえていうと……)、「ことば」というものが「女の子」だけにかぎらず、ほかの誰にしたって、「さわることも噛むこともできない」。つまり、「ことばはさわることも噛むこともできない」という「こと」が「女の子」と「詩人(川上)」によって共有されているからだ。そして、その共有されている「こと」は読者にも共有されている。そういうことを私たちは「頭」だけではなく、「肉体」として知っている--いや、「覚えている」。「肉体」ではことばにさわれない。肉体である歯でことばを噛むことはできない--そういうことをしたことがないということを「肉体」は「覚えている」。--「したことがない」ことを「覚えている」、「ない」が存在するというところからは、また別の哲学(?)がはじまるのだけれど省略。

 だれも(たぶん、と書いておこうか)、ことばにさわったり、ことばをかんだりしたことを「肉体」では体験していない。
 その一方ことばを「口にしてみる」(声に出してみる)ということは、だれもが体験している。ことばを声にするという「こと」を肉体は「覚えている」。
 私たちは、知らず知らずのうちに、川上のことばに誘われて、川上がそうしているように(あるいは、この詩の「女の子」がそうしているように)、「肉体」を共有しているのである。「肉体」と「ことば」の関係、ことばを動かすときの「肉体」--「肉体」が「覚えていること」を共有しているのである。「共有」を誘うように川上のことばは動いている、と言いなおした方がいいのかもしれない。
 で、そのあと。「戦争花嫁、と口にしてみれば唇がなんだか心地よく、豪雨の最中だというのに非常な明るさの気分がする。」というのは、個人差があるかもしれないけれど、「明るさ(明るい)」と言われれば、そういう感じがするね。
 この誘導の仕方、誘い方が、川上はとても巧みなのだと思う。
 なかなかまとまった考えにならないのだが、その「明るさ(明るい」」について補足すれば、「ある女の子」の「ある」もそれに影響している。「女の子があるいていたときに」でも「意味」はかわらない。でも「ある」と「あ」からことばがはじまると「お」ではじまるよりも開放的で明るい感じがする。「ある」の「あ」は「明るい」の「あ」なのである。

 「肉体」のことを書いたが……。
 川上のことばは「肉体」をくぐりぬけるが、「肉体」だけを基本に動くわけではない。

なのでつかまえて、

 この「なので」は「理由」をあらわす。「理由」は「頭」で動いている。
 で。
 この「なので」なのだが。
 これが絶妙。
 「さわることも噛むこともできない言葉でした」。ならば、どうして「つかまえる」ことができるのだろう。
 変だよね。
 しかし、その「変だ」という感じが起きる前に「戦争花嫁、と口にしてみれば」と「口にする」という「肉体」で、「変」をのみこんでしまう。このあたりのリズム、飛躍の仕方がとても「口語的」。ことばは話している先から「消えていく」。そこに存在しなくなる。けれど「ことばが動いた」感じは残っているので、その「残っている何か」を「肉体」が追いかけてしまうのかも。



 (私は目の状態がよくなくて、パソコンに向かっている時間を一回あたり40分に制限している。で、ここからは「休憩」をはさんでのことなので、前に書いたことと少し断絶するかもしれないのだが、書くことがらも、そういう事情を反映して、微妙にかわる。)

 川上のこの詩の特徴的なことばは「なので」にある。

さわることも噛むこともできない単なる言葉でした。なのでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば

 「なので」というのは「接続する」ことばである。「理由」によって前の文章と後の文章を接続/結びつける。結びつけるものであるから、ふつうは(学校文法では)、「なので」の前は句点「。」をつかわない。川上の書いているように「……でした。なので」ではなく、

さわることも噛むこともできない単なる言葉なのでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば

 という具合になる。ところが、川上はそうは書かない。ここに、この詩の特徴がある。川上のことばの特徴がある。
 川の水が上から順々に流れてくるように「なので」ということばをつかわない。いったん「言葉でした。」と切断してしまって、それから接続し直す。順番に流れるようにして働く「なので」を「順接のなので」という風に呼んだとすると、川上の「なので」は「逆接のなので」とでも呼べそうなものである。(跳接/飛接もいいかもしれないなあ……。)
 で、それが順々に流れる「論理」ではない、何か離れたものを結びつける「論理」構造なので、おもしろいよ、ほら

つかまえて

 ここに「肉体」をつかった「動詞」が出てくる。
 「論理」(理由づけ?)というのは、必ずしも、「前」から存在するのではない。前に書かれたことがらのなかに必然的に存在するのではない。あとから強引に「接続」によってつくりだすことができるのである。
 こういう強引な操作をやると、たいていは「空論」になるのだけれど、川上はそこに「つかまえる」という動詞を組み込ませることで、それを「頭」の問題ではなく、「肉体」の問題にしている。何で(手で?)と書いていないが、「つかまえる」という動詞は無意識に肉体を刺戟する。そうすることで「ことば」と「肉体」の問題にひきもどし、さらに「肉体」を強調するかのように、「口にしてみれば」とつづける。何でつかまえたのかわからないが、そのわからなさを口という具体的な肉体が補強(?)する。
 そして、ことばは「肉体」のなかで動き、それは「気分」をつくりだすのである。
 「なので」という「論理的(?)」な接続ではじまったことばは、「肉体」をとおって「気分」になる。
 この変化--ここに川上の特徴がある。
 ことばを「頭」で処理して、「さわることも噛むこともできない」というだけではなく、そういうとき「肉体」のなかで動いている「こと」を「肉体」でつかみなおすのである。

 こんなことを書いていると、川上はとても哲学的な詩を書いているような気がして、読むのがおっくうになるかもしれないけれど(実際、川上の詩は、哲学的に読もうとすればどこまでも哲学的に読むことができると思うけれど)。
 そんなことよりも、もう一度「なので」に戻ると。
 「……でした。なので……」という口調、あるいは呼吸といえばいいのか、これは「口語(会話)」ではふつうにつかわれる。
 「電車が事故でストップしました。なので遅刻しました。」これは「電車が事故でストップしたので遅刻しました。」ということなのだが、なかなかそういう長い文章では言わないね。長くなるととっても改まった気がして、なんとなくいまの風潮にあわない。
 だけではなくて。
 実はここにはおもしろいことが起きている。
 「電車が事故でストップしました。なので遅刻しました。」は正確には「電車が事故でストップしました。なので(私は)遅刻しました。」である。「電車が事故でストップしたので遅刻しました。」は「電車が事故でストップしたので、(私は)遅刻しました。」
 「なので」の前と後では「主語」が違っている。そこには「切断」があるのだ。「切断」があっても、それを「接続」できるのは、なぜか。「電車」のなかに「私」がいたからだ。「電車」と「私」が「事故」を共有しているからだ。「電車」と「私」は別個の存在(肉体)であるが、そういう別個の存在も「こと」を共有できる。
 私たちはそういう「こと」をいちいち意識化しないけれど、「肉体」はそういうことを無意識にとりこんでしまう。消化してしまう。そうして動いている。
 川上が書いているは、こういう「呼吸」、「肉体の動き」だと私には思える。
 
 ことばが「肉体(肉体のことば)」をぶつかりながら、その瞬間瞬間、「ことばの肉体」が誕生する。そして、その誕生した「ことばの肉体」が自立して動いていく。それを川上は書くことで定着させている。--というようなことを、また、言いなおす形でいつか書いてみたい。


水瓶
川上未映子
青土社

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