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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鄭浩承「水の花」ほか

2010-03-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
鄭浩承「水の花」ほか(韓成礼・訳)(「PO」135 、2009年11月20日発行)

 「PO」135 は「韓国現代詩の今」という特集を組んでいる。鄭浩承「水の花」はとても美しい作品だ。

川水の上に浴びせるほど降る夕立が
水の花ならば
絶壁に落ちる滝が
水の花びらならば
母のように島のふもとを撫でる
白い波の流れが
水の百合ならば
あの穏やかな川の波が
水のバラならば
あの通りの噴水が水の桜なら
それでも落花する時を知る
すべての人間の涙が
水の花ならば

 「○○が/水の花(百合、バラ、桜)なら(ば)」と2行が対になって動いてきたことばが、最後になって乱れる。

あの通りの噴水が水の桜なら
それでも落花する時を知る

は、本来は

あの通りの噴水が
水の桜なら(ば)
それでも落花する時を知る

という3行なのか。あるいは、それは次の行を含んで、

あの通りの噴水が
水の桜なら(ば)
それでも落花する時を知る/すべての人間の涙が
水の花ならば

なのか。
 対句で動いてきたことばが、なぜ、そこで乱調になるのか。
 「それでも落花する時を知る」という1行の重さが、この詩のキーだからである。「時を知る」この「時」とは、禅でいう「時節」というものかもしれない。そして、それはいつでも「存在」するのではなく、「知る」ことによって、その瞬間にあらわれてくるものである。
 「落花」というのは、はため(?)には悲しいことかもしれない。花はいつまでも咲いていた方が美しいかもしれない。けれど花はいつまでも花であっては、花ではないのだ。それは蕾から花へと変化し、さらには散って、実を結んでこそ、花であった「意味」がある。蕾であるから花であり、散るから花であり、実を結ぶから花である。それは咲き誇るから花であるというのと同じである。花のさまざまな形のなかに、花そのものがある。一即是多。多即是一。そして、その「即是」が「時」なのである。
 その「時」を「知る」。「知る」とは、その対象(ここでは「時」)が人間の「肉体」のなかに入ってきて、肉体と一体に「なる」ということだ。
 そういう「時」、人間の涙は「水の花」になる。悲しみを超える。つまり、純粋な「悲しみ」というものになる。純粋なとは「永遠の」という意味でもある。

 鄭浩承のことばは短い。少ない。けれど、そのことばのなかに、矛盾した力がある。そこにあるものを説明しようとすると、同じことばを繰り返すしかないような、何の説明もできなくなるような、強い結晶、強固な結晶、透明な結晶の、その強さ、透明さを生み出す力がある。
 「結氷」

結氷の瞬間は熱い
カチカチに凍りついた冬の川
滔々と流れる水さえ
一生に一度は
すべての流れを止めて
互いに一つの身になる
その瞬間は熱い

 「一生に一度」とは、「水の花」の「時を知る」の「時」である。
 上流にあり、下流にあり、岩にぶつかって割れる。岸に触れて澱む。水の「様態」は「多」である。けれども「水」という「一」でもある。「一」であるからこそ、「多」の姿をとることができる。一即是多。多即是一。そういうことを知る瞬間、一生に一度、それは熱い結晶になる。それが氷。
 氷が熱い--というのは矛盾だが、矛盾だから、そこに「思想」がある。一即是多。多即是一。これも矛盾だから思想なのである。色即是空。空即是色。それが矛盾であり、同時に思想であるのと同じである。

 この二つの詩にあらわれた「時」(一生に一度)を踏まえて、「飛び石」を読むと、最終連のことばがいっそう強く結晶してくるのがわかる。

花は散るべく散り
水は流れるべく流れて
氷は溶けるべく解けるのだが
私は生きるべく生きることができずに
飛び石になって伏せている

今日も水は冷たく流れは速い
君よどうか水に溺れずに
私を踏んで起き上がり力強く渡って行け
私たちは青い川辺の飛び石を
今は何度、また渡ることができるのか

時には飛び石も水になれる
時には飛び石も水になって流れ
会いたい時
二度と会えない時がある

 「君」が「私」という「飛び石」を踏んで川を渡る時、「私」もまた「君」になって川を渡っている。「私たち」に「一体」である。「私」はそのとき「君」にな「なる」。「私」は「君」ではない。だからこそ、「なる」ということができる。「なる」とは一即是多。多即是一の「即是」である。「即是」は「時」でもあったが、「一体」になるとは「時」に「なる」ということでもある。
 「時」に「なる」とき、すべての存在は互いに融合する。融通する、というべきか。「飛び石は水にもなれる」。石と水は別個のものだが、「一」に「なれる」。
 一即是多は多即是一でもある。この矛盾の真実を、鄭浩承は「会いたい時/二度と会えない時がある」と書く。二度と会えないからこそ、会いたい。そして、その会いたいという気持ちのなかで、ふたりは今まで以上に会う。硬い結晶のように、純粋に、透明になるまで、会ってしまう。


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