小川三郎「雪だるま」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)
小川三郎「雪だるま」の書き出しの2行に非常に驚いた。
まず驚いて、それから、驚いてしまったことに、もう一度驚いた。何かを買う--というのは、現代ではあたりまえのことである。買うという行為を通して世界が動いている。買うということは「いくら」か、相手の求めるものを払うことである。ここには何の不思議はない。何の不思議はないのだけれど、やはり驚いた。そして、なぜ、驚いたのだろうか、とかんがか始めた。
買う--その対象が「雪」だからだろうか。「花」だったら、驚かなかっただろうか。どうも違う。
私は、「いくら渡せば/その雪を私にくれますか。」の「いくら渡せば」「私にくれますか」という切羽詰まったような文体に驚いたのだ。私は、「……をください」という表現はつかう。「いくらですか」という表現もつかう。けれども、「いくら渡せば……を私にくれますか」とは言わない。
あ、まるで身代金目的の誘拐犯人と交渉しているみたいじゃないか。
私が驚いたのは、たぶん、そのせいである。「いくら渡せば、娘をかえしてくれますか?」というような感じで、何かを買うということは、したことがない。
金(かね)ということばはつかわれていないが、まるで「金」が「もの」として見えてきたのである。今はカードが支払いの多くを占める世の中になって、「金」そのものが抽象的な「数字」になってしまっているが、何といえばいいのか、金の暴力が、ふいに浮かび上がって見えてきたのである。
労働の代価、といえば聞こえがいいが、金は暴力である。物々交換のときは、ほしいものを自分がつくったものと交換した。そのとき、自分がつくったもののなかには具体的汗というか、時間があった。けれど、それが金に換わった瞬間から、ほんとうはそこにあるはずの汗や時間、苦労、あるいはよろこびというものが、抽象的な「数字」になってしまって、「実感」というものが消されてしまった。金は、労働を「消去」してしまう暴力である。カードは、その金さえも直接手渡ししないので、もっと暴力的である。お札や小銭を数えない。ただ頭のなかで(?)数字を動かすだけである。
この暴力のいちばん悪質なところは、それが暴力的に見えないことである。
その、見えなかった「暴力」が、一瞬、ふっと、目の前をよぎったのである。自分の時間を犠牲にして稼ぐ金--その「いくら」を費やせば、雪を渡してもらえるのか。「買う」のではなく、「くれる」、つまり相手の手元から自分へと渡してもらう。そのために、それまでにつかってきた「時間」(労働)を「いくら」(幾日、幾時間)渡せばいいのか。
いまでは抽象的になってしまった金のやりとりが「金」と「もの」(雪)の「物々交換」のように見えてしまった。
「物々交換」というあり方を浮かび上がらせることばの動きに私はびっくりしてしまったのである。
2連目以降は、その雪で「雪だるま」を「ふたつ」つくりたいという「私」の夢が語られる。
なぜ、「ひとつ」ではなく「ふたつ」?
労働し、金を稼ぐ。そして、その金で何かを買う。買って、暮らしていく。そのなかには「ひとつ」ではないものがある。「ふたつ」の存在があってはじめて成り立つ何かがある。そういうことが関係しているかもしれない。
小川は、具体的には書いていないが、私は最初の2行の「暴力的」なことばの動きから、そういうものを考えてしまった。
「ふたつ」はもしかすると、買うとは無縁のことかもしれない。
たとえば、愛。
男と女。ふたつ(ふたり)のいのち。そこで何かをやりとりする。気持ち、こころ。そこには悲しみや憎しみもあるかもしれない。それがなんであれ、何かが行き来する。そして、その行き来には、現実の「経済」と違って、金は動かない。金という「暴力」を仲立ちにしないで動くものがある。
その、目に見えないもの--それを見るために、「私」は、雪を、雪だるまを切実にほしいと思っている。
「嫌われる」--けれど、嫌われるものにもいのちがある。そして、嫌うものにもいのちがある。そのいのちは、金とは違って、やがて終わる。終わるしかないものが、金の暴力に突き動かされて、疲れ切っている。
その悲しみを感じた。
小川は、金の暴力を肉体で感じる詩人なのだと思った。そして、また、いま、こういう作品が書かれないのは(私が知らないだけなのかもしれないが)、なぜなのだろうか、とも思った。私たちは金の暴力に、もう馴らされきってしまっているのだろうか。「高速道路無料化」とか「子ども手当て」とか、甘い甘い暴力が、暴力の姿を隠して、すぐそこまで来ているが……。
小川三郎「雪だるま」の書き出しの2行に非常に驚いた。
いくら渡せば
その雪を私にくれますか。
まず驚いて、それから、驚いてしまったことに、もう一度驚いた。何かを買う--というのは、現代ではあたりまえのことである。買うという行為を通して世界が動いている。買うということは「いくら」か、相手の求めるものを払うことである。ここには何の不思議はない。何の不思議はないのだけれど、やはり驚いた。そして、なぜ、驚いたのだろうか、とかんがか始めた。
買う--その対象が「雪」だからだろうか。「花」だったら、驚かなかっただろうか。どうも違う。
私は、「いくら渡せば/その雪を私にくれますか。」の「いくら渡せば」「私にくれますか」という切羽詰まったような文体に驚いたのだ。私は、「……をください」という表現はつかう。「いくらですか」という表現もつかう。けれども、「いくら渡せば……を私にくれますか」とは言わない。
あ、まるで身代金目的の誘拐犯人と交渉しているみたいじゃないか。
私が驚いたのは、たぶん、そのせいである。「いくら渡せば、娘をかえしてくれますか?」というような感じで、何かを買うということは、したことがない。
金(かね)ということばはつかわれていないが、まるで「金」が「もの」として見えてきたのである。今はカードが支払いの多くを占める世の中になって、「金」そのものが抽象的な「数字」になってしまっているが、何といえばいいのか、金の暴力が、ふいに浮かび上がって見えてきたのである。
労働の代価、といえば聞こえがいいが、金は暴力である。物々交換のときは、ほしいものを自分がつくったものと交換した。そのとき、自分がつくったもののなかには具体的汗というか、時間があった。けれど、それが金に換わった瞬間から、ほんとうはそこにあるはずの汗や時間、苦労、あるいはよろこびというものが、抽象的な「数字」になってしまって、「実感」というものが消されてしまった。金は、労働を「消去」してしまう暴力である。カードは、その金さえも直接手渡ししないので、もっと暴力的である。お札や小銭を数えない。ただ頭のなかで(?)数字を動かすだけである。
この暴力のいちばん悪質なところは、それが暴力的に見えないことである。
その、見えなかった「暴力」が、一瞬、ふっと、目の前をよぎったのである。自分の時間を犠牲にして稼ぐ金--その「いくら」を費やせば、雪を渡してもらえるのか。「買う」のではなく、「くれる」、つまり相手の手元から自分へと渡してもらう。そのために、それまでにつかってきた「時間」(労働)を「いくら」(幾日、幾時間)渡せばいいのか。
いまでは抽象的になってしまった金のやりとりが「金」と「もの」(雪)の「物々交換」のように見えてしまった。
「物々交換」というあり方を浮かび上がらせることばの動きに私はびっくりしてしまったのである。
2連目以降は、その雪で「雪だるま」を「ふたつ」つくりたいという「私」の夢が語られる。
なぜ、「ひとつ」ではなく「ふたつ」?
労働し、金を稼ぐ。そして、その金で何かを買う。買って、暮らしていく。そのなかには「ひとつ」ではないものがある。「ふたつ」の存在があってはじめて成り立つ何かがある。そういうことが関係しているかもしれない。
小川は、具体的には書いていないが、私は最初の2行の「暴力的」なことばの動きから、そういうものを考えてしまった。
「ふたつ」はもしかすると、買うとは無縁のことかもしれない。
たとえば、愛。
男と女。ふたつ(ふたり)のいのち。そこで何かをやりとりする。気持ち、こころ。そこには悲しみや憎しみもあるかもしれない。それがなんであれ、何かが行き来する。そして、その行き来には、現実の「経済」と違って、金は動かない。金という「暴力」を仲立ちにしないで動くものがある。
その、目に見えないもの--それを見るために、「私」は、雪を、雪だるまを切実にほしいと思っている。
私のつくる雪だるまは
きっと無表情だろうけど
何かを主張するわけでも
ひとを幸福にするわけでもないけれど
確かにそれはふたつあって
なによりそれは、雪だるまであって
明日には溶ける運命を
誰にも渡さずに持っている。
生まれたままに見る悪夢を
わななく夜空に向かって
大の字に広げたい
儚いとはいえ
終わることを考えるのは
人間だけですから
そういう習性なんです
いつでもどこでも。
だから嫌われるのですが。
「嫌われる」--けれど、嫌われるものにもいのちがある。そして、嫌うものにもいのちがある。そのいのちは、金とは違って、やがて終わる。終わるしかないものが、金の暴力に突き動かされて、疲れ切っている。
その悲しみを感じた。
小川は、金の暴力を肉体で感じる詩人なのだと思った。そして、また、いま、こういう作品が書かれないのは(私が知らないだけなのかもしれないが)、なぜなのだろうか、とも思った。私たちは金の暴力に、もう馴らされきってしまっているのだろうか。「高速道路無料化」とか「子ども手当て」とか、甘い甘い暴力が、暴力の姿を隠して、すぐそこまで来ているが……。
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