東京オリンピック2020がきょう7月23日開幕する。前回の東京大会のとき、私は小学生だった。6年生か、5年生かは忘れてしまった。覚えているのは「アジアで初めてのオリンピック」ということばだ。日本はアジアだった。いま、この日本はアジアである、という感覚がとても稀薄になっていると思う。あのころ、私は富山の田舎に住んでいた。中国人も韓国人も知らない。周囲にいる人も、たぶん、知らない。話題になったことはない。だから、その当時、日本人が中国人や韓国人を嫌っていたかどうか、肌で感じることはなかった。子どもだから、そういう情報に触れなかっただけなのかもしれない。情報があっても気がつかなかっただけなのかもしれない。でも「アジアで初めて」ということばをつかうくらいだから、日本はアジアであると意識が強く、アジアであると意識する以上、同じアジア人を嫌うということも、そんなに露骨ではなかったのではないかと思う。
いま、やたらと目につくのが「反韓」「反中」ということばであり、また「反日」ということばである。日本政府を批判すると、韓国より、中国よりである。つまり「反日」である、という。そこには「同じアジア」という意識はない。日本はアジアではない、と意識しているかどうかはわからないが、なんとも、うさんくさい意識である。個から出発すれば、日本人である、アジア人である、世界人(?)である、という具合につながっていくはずなのに、途中の「アジア人」の意識が欠けていると思う。
特にこれを強く感じるのは、最近の台湾をめぐる日本の政策である。日本の政策というよりも、日米の政策、さらに言えばアメリカの政策なのだが、「アジア人」という視点から見ると、その政策は奇妙に見えないか。
中国が台湾へ侵攻するかもしれない。それは日本にとっての「有事」である。だからアメリカといっしょになって台湾を防衛しなければならない。麻生は、最近、そう言った。しかし、台湾は中国の一地域である、というのが日本の公式見解だと私は理解している。それに反して、実際にやろうとしていることは台湾を中国から切り離し、アジアから切り離す政策に見える。台湾をアメリカ化する。日本を、特に沖縄をアメリカ化したように。このときのアメリカ化とはアメリカの基地化という意味になる。日本、台湾はアジアではなく、アメリカ(西欧)である、という意識がどこかに潜んでいないか。韓国も、そういう意味ではアメリカである。同じアメリカなのに、日本のある人々は、なぜか、韓国人を嫌っている。彼らのなかには、とんでもない「矛盾」がある。「脱アジア」政策をとるいまの政権が、そして、そういう「反韓」勢力(意識)を利用しているというのも、なんとも奇妙なのだが……。
日本が立つべき位置は、アメリカと一体になることではなく、アジアと一体になることだろう。日本はアジアであるという意識を忘れないことが大切だと思う。
台湾と中国とのあいだで紛争が起きれば、もちろんそれは大変なことである。だが、その問題を解決するとき、台湾を中国から切り離す、アメリカにしてしまうというのではなく、アジアのままで解決しないといけないのではないのか。「有事」というものが、何と何を指すのか、定義はむずかしいが、何かあったとき、助け合わなければならないのは「隣国」である。中国は隣国である。しかも、日本は中国から多くのことを学んでいる大切な国である。交通網、通信網が発達し、アメリカは遠い国ではないかもしれないが、それでも中国よりは遠い。アメリカはアジアではない。アメリカが台湾をアメリカ化することに対して、異議を唱えるべきである。それができない限り、沖縄の基地はなくならない。逆に言えば、アメリカが台湾のアメリカ化をすすめるとき、日本が「集団的自衛権」を主張していっしょに行動するならば、日本全体がアメリカの基地となってしまう。日本は完全にアメリカになってしまう。アジアではなくなる。
アメリカは、アジアの東では日本、韓国をアメリカ(基地)化し、西ではイスラエルをアメリカ(基地)化しようとしている。アジアを東西の両方から押さえつけ、アジアが「世界化」することを阻止しようとしている。「世界化」していいのはアメリカだけであるという考え方だ。アメリカが「世界」を支配するとき、そこに「秩序」「安定」が生まれるという思想である。
中華思想に与するわけではない。必要なのは「共存」の思想なのだ。そして、その「共存」というのは、絶対的に「個」であることが必要だ。「個」の平等。それは「アジア」と「日本」のあいだで確立し、それから「日本」と「世界」とのあいだで確立していくものである。そのとき「アジア」と「アジア以外の世界」は平等である、という意識が重要である。「アメリカの世界観が正しい」ではなく、「平等」が必要である。
スポーツは、実際はどうか知らないが、ルールのもとで「平等」である。その「祭典」であるオリンピックが開かれる日、私は、ふとそういうことを思った。「アジアで初めてのオリンピック」といったとき、そこには、世界に向かって開かれている希望のようなものがあった。でも、アジアを忘れたいま、オリンピックにはどこにも希望はないように思える。オリンピックではアメリカではなく、IOCがIOCの利益のために動いているのだが。ただ、構造としては、同じに見える。つまり、日本は(菅は)、アメリカの言う通りにさえしていれば日本は「世界の一員(しかもトップクラスの一員)」でいられる。IOCの言うがままに動いていれば、日本は「世界の一員」でいられる。「アジアの一国」ではなく「世界の一国」でいられると勘違いしているように見える。
「スポーツを通じて世界をひとつにする」という「美しいことば」。でも、世界はひとつにならなくていい。ばらばらのまま、平等でいるのがいちばんいい。ばらばらのままでも、楽しく生きることができる、というのがいちばんいい。完全にばらばらになるのはむずかしい。だから、まず「世界」ではなく「アジア」であること意識する、まわりには隣人がいる(隣国がある)くらいのことろまでは引き返してみるべきだろう。
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