小林稔「髀肉之嘆(ひにくのたん)」(「ヒーメロス」13、2010年03月05日発行)
小林稔「髀肉之嘆」のことばには「既視感」がある。
技巧的な短編小説にでてきそうなことばばかりである。
でも、この既視感は、この作品の場合、欠点ではなく、長所となっている。
タイトルの「髀肉之嘆」は「故事」。戦場に行けない日々がつづいて、ももの肉がついて太ってしまうことを嘆くこと。小林は、その「故事」をいわば語りなおしている。独自の「物語」を重ね合わせることで、換骨奪胎という語り直しをやっている。
そういう「既成の物語(故事)」へむけて、ことばを動かすときのことばは、「新しい」ものであるより、「聞いたことがある」方がいい。「聞いたことのあることば」の方が「うそ」というか、「故事」というか、つまり「いま」「ここ」にあることではないということが明確になるからだ。(「うそ」とは「いま」「ここ」にないことを語ることばである。そして、「故事」とは「いま」「ここ」ではないできごとである。「いま」「ここ」にはない、ということでいえば「うそ」と「故事」は重なり合う。)
「新しいことば」では、それが「うそ」か「ほんとう」かわからない。安心できない。「うそ」か「ほんとう」かわからないということは、「故事」が「故事」でなくなってしまうということである。そこで語られることが、新しい「事件」(できごと)になってしまうことである。「新しさ」、「新しい生々しさ」が、読者を(私を)、「新しい物語」へひっぱっていく。「物語」はそのとき「故事」ではなくなる。それでは、わざわざ「故事」を冒頭にかかげる必要はない。
「故事」には新しくないことばが必要なのだ。
でも、もし、そうであるなら、なぜ、この作品は書かれなければならないのか。この作品が「詩」である理由は何なのか。新しいことばがまったくない作品、既視感のあることばをただ積み重ねるだけの作品が詩になりうるのか。
実は、ひとつ、「新しいことば」がひそんでいる。小林は一回だけ書いている。
遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。
「思う」。これが、新しい。そして、その「思う」が小林の「肉体」であり、「思想」である。
なぜ、「思う」が思想なのか。
少し脱線してみる。
日本の昔話の、はじまりの定型。「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」これは、いわば「うそ」のはじまりである。「いま」「ここ」とは関係ないことの「はじまり」のことばである。これから語られるのは「いま」「ここ」とは関係ないこと、つまり「うそ」がはじまります、と宣言することばである。
もし、これに「思う」がついていたら、どうなるだろう。
「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいたように思う。」
とたんに「うそ」が消えてしまう。
そのあと、どんな「物語」がはじまろうが、それは、常に「思う」をひきずってしまう。どんなに奇想天外のことが起きようが、それは「思ったもの」(思われたことがら)である。
そして、そこには、「思う」という「真実」だけがある。
これは「故事」についても同じである。小林はこの作品で、戦場に行かないために、ももの肉が肥えてしまったことを嘆くという「故事」を語りなおしているのだが、それに「思う」を追加した瞬間から、そこに書かれていることがらではなく、ただ「思う」ということばだけが存在するのだ。
「思う」ことだけが、人間の存在意義なのだ。
「思う」ということばを印象づけるために、小林は、あえて既視感のあることばを書きつらねるのだ。「思う」は一回しか登場しないが、それは、小林があえてそうしているのである。ほんとうは、あらゆることばの最後に「思う」が存在しているが、そのことに気がついているか、と小林は問いかけているのかもしれない。
「思う」というこころの動き--それは「真実」としてゆるぎがない。小林の書きたいのはそれなのである。「思う」ことのゆるぎなさ。「我思う、ゆえに我あり」とは小林のためのことばかもしれない。
小林稔「髀肉之嘆」のことばには「既視感」がある。
私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。
私が読み耽る書物は乱丁ばかりであった。
私の歩みは追憶に過ぎぬのであれば足跡と呼びうるものをうしろ向きに消していくことであろう。
技巧的な短編小説にでてきそうなことばばかりである。
でも、この既視感は、この作品の場合、欠点ではなく、長所となっている。
タイトルの「髀肉之嘆」は「故事」。戦場に行けない日々がつづいて、ももの肉がついて太ってしまうことを嘆くこと。小林は、その「故事」をいわば語りなおしている。独自の「物語」を重ね合わせることで、換骨奪胎という語り直しをやっている。
そういう「既成の物語(故事)」へむけて、ことばを動かすときのことばは、「新しい」ものであるより、「聞いたことがある」方がいい。「聞いたことのあることば」の方が「うそ」というか、「故事」というか、つまり「いま」「ここ」にあることではないということが明確になるからだ。(「うそ」とは「いま」「ここ」にないことを語ることばである。そして、「故事」とは「いま」「ここ」ではないできごとである。「いま」「ここ」にはない、ということでいえば「うそ」と「故事」は重なり合う。)
「新しいことば」では、それが「うそ」か「ほんとう」かわからない。安心できない。「うそ」か「ほんとう」かわからないということは、「故事」が「故事」でなくなってしまうということである。そこで語られることが、新しい「事件」(できごと)になってしまうことである。「新しさ」、「新しい生々しさ」が、読者を(私を)、「新しい物語」へひっぱっていく。「物語」はそのとき「故事」ではなくなる。それでは、わざわざ「故事」を冒頭にかかげる必要はない。
「故事」には新しくないことばが必要なのだ。
でも、もし、そうであるなら、なぜ、この作品は書かれなければならないのか。この作品が「詩」である理由は何なのか。新しいことばがまったくない作品、既視感のあることばをただ積み重ねるだけの作品が詩になりうるのか。
実は、ひとつ、「新しいことば」がひそんでいる。小林は一回だけ書いている。
遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。
「思う」。これが、新しい。そして、その「思う」が小林の「肉体」であり、「思想」である。
なぜ、「思う」が思想なのか。
少し脱線してみる。
日本の昔話の、はじまりの定型。「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」これは、いわば「うそ」のはじまりである。「いま」「ここ」とは関係ないことの「はじまり」のことばである。これから語られるのは「いま」「ここ」とは関係ないこと、つまり「うそ」がはじまります、と宣言することばである。
もし、これに「思う」がついていたら、どうなるだろう。
「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいたように思う。」
とたんに「うそ」が消えてしまう。
そのあと、どんな「物語」がはじまろうが、それは、常に「思う」をひきずってしまう。どんなに奇想天外のことが起きようが、それは「思ったもの」(思われたことがら)である。
そして、そこには、「思う」という「真実」だけがある。
これは「故事」についても同じである。小林はこの作品で、戦場に行かないために、ももの肉が肥えてしまったことを嘆くという「故事」を語りなおしているのだが、それに「思う」を追加した瞬間から、そこに書かれていることがらではなく、ただ「思う」ということばだけが存在するのだ。
「思う」ことだけが、人間の存在意義なのだ。
「思う」ということばを印象づけるために、小林は、あえて既視感のあることばを書きつらねるのだ。「思う」は一回しか登場しないが、それは、小林があえてそうしているのである。ほんとうは、あらゆることばの最後に「思う」が存在しているが、そのことに気がついているか、と小林は問いかけているのかもしれない。
「思う」というこころの動き--それは「真実」としてゆるぎがない。小林の書きたいのはそれなのである。「思う」ことのゆるぎなさ。「我思う、ゆえに我あり」とは小林のためのことばかもしれない。