秋山基夫「黒い窓」(「ペーパー」6、2010年02月01日発行)
秋山基夫「黒い窓」は、まず「黒い窓」というタイトルの詩(?)があって、「「黒い窓」のための物語」、「参照文献及び若干のノート」という部分から構成されている。通俗的というか、「流通文学鑑賞」的に要約すれば、「物語」は秋山の体験した事実。「文献」は体験としての「物語」を濾過する装置。「物語」が「文献」によって整理、補強され、「黒い窓」という「詩」に昇華(?)する(される?)。
「詩」の部分は、私にはあまりおもしろくない。
「烏賊にも蛸にも」というような、それこそ「陳腐」なことばが並んでいる。これは、Y氏(実は「吉田氏」と、「物語」で書かれている)が「チャラチャラチャラチャラ袖を振って」と言ったことばから、秋山が「妄想」を展開して広がった世界である。
--とは、「詩」と「物語」を総合的に読んで、私が判断したことであり、事実かどうかは知らない。
こういう説明的な「詩」と「物語」のつながりも、おもしろくない。
おもしろくない、おもしろくない、と書きながら感想を書いているのは……。
「文献」の部分がおもしろいからである。そして、そのおもしろさというのは、私の勝手な「妄想」を許してくれるからである。秋山がなぜその文献を引用しているかということは、ほとんど関係がない。
たとえば、先に引用した「聖戦」の部分と関係してくるのだと思うが、そこに高村光太郎の文章が引用されている。太平洋戦争中、詩の朗読がはやったらしい。そのことを高村は歓迎している。そして、秋山は、ていねいに高村光太郎の「説」を解説している。
「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」という副詞(副詞節?)+番号という念の入った書き方が秋山のことばの特徴だけれど、いいよなあ、このことばの追い込み方。
というところから、秋山の「妄想」ではなく、私の「妄想」(ことばの暴走--あ、妄想と暴走は韻を踏んでいるね)がはじまる。
なぜ、私が秋山の詩がおもしろいかと感じるかというと、秋山の念押しの箇条書き、ていねいすぎる解説に、気持ちが半分(半分以上?)、秋山のことばから離れてしまい、秋山がていねいに書けば書くほど、なんというか、いいかげんに読んでも大丈夫、という気がしてくるからなのだ。私が「誤読」したって、また、そのうち、秋山は同じことを繰り返し書くに決まっている。だから、全部理解しなくていい、少しずつつまみ食いする感じで理解しておけば、なんとなく全体がわかるだろうと感じ、気楽に読めるからなのである。それは、変な言い方になるが、秋山の発することばへの「信頼」である。こんなふうに、ていねいにていねいに書く、ことばを動かすのが秋山である、という秋山への信頼と言い換えてもいい。
ね、ことばへの信頼というのは、結局、その人への信頼でもあるよね。その人が信頼できれば、何をいっていてもそれを信じてしまう。そういう安心感があって、私の妄想ははじまる。
で、私の妄想(ことばの暴走--誤読)というのは。
ことばというのは、やっぱり「書かれてしまう」から暴走するんだなあ。「書きことば」だから暴走するんだなあ、ということである。高村光太郎は「朗読」を推奨しているのだけれど、その推奨は「書かれている」。「書きことば」として、そこにある。それを読んで、秋山は、「妄想」(正しい想像、と秋山はいうだろうけれど)している。
秋山風に言えば、まず①高村のことばを書き写す。(引用する。)次に、②1文ずつ秋山のことばで書き直す。(解説する。)そして、③それに自分の感想を書きつらねる。(この部分は長くなるので引用しないが、私が引用した部分のあと、改行し、秋山は、あれこれと書いている。)
書き写し、書き直す--これは、高村のことばが「書かれている」(書きことば)だからである。これが、講演や対話のように「声」のことばだったら、こういうことができない。先行することばを、自分のことばのスピードで反復しなおす余裕がない。
あくまで、自分の「ことばの肉体」のスピードで反復しなおす。そこには「時間」の「差」というか、「ずれ」が生まれ、その「差」(ずれ)のなかへ、秋山自身のことばが入り込んで行く。「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズム、どこまでもどこまでも、読者が誤解しないようにと念をおしながら進む「ことば」の論理が侵入してくる。
秋山の「思想」は、その「正確」への念おしなのである。(秋山への信頼というのは、秋山は常に「正確」をめざす、ということへの信頼である。)
「詩」を書く。詩というものは、特に現代詩というものは、「難解」と決まっている。「難解」というのは、「誤読」のもとになる。「ことば」が正確につたわらないから、誤読されるのだ。だから、ほら、秋山は「詩」を、まず、①「物語」で解説する形で、そこに書かれていることを念おしする。次に、②「物語」でも書き切れなかったことを「文献」で補足し、さらに、③その「文献」に秋山自身の解説を書き加える。
そうやって、「正確に」「正確に」「正確に」、「詩」という「いま」を、「過去」で説明しようとする。「詩」があるのは、「これこれの過去」があるから。そして、その「過去」は、さらなる「過去」で「これこれ」という具合に説明できる。どのことばもきちんと「裏付け」をもっている。「裏付け」というのは「意味」である。だから、「誤解(誤読)」しないでね、と秋山はいうのである。
おかしいでしょ? 私は笑ってしまいますねえ。秋山を信頼できるといいながら「笑う」のはおかしいと思う人がいるかもしれないけれど、笑うというのは「安心」と同じことだからね。警戒していると、笑わない。信頼しているから、笑うことができる。
秋山が高村光太郎のことばを書き写し、それについての思いを書くなら、私だって、秋山のことばを書き写し、それについて感想を書く。読むというのは、けっして消えないことばを反芻することであり、書くというのは、けっして消えないことばを残すということである。そして、その行為は、「朗読」(聞く)と違って、自分ひとりで、自分のペースでおこなえることである。
そういうとき、人間というのは、自分の「過去」を(知っていることを)、どんどんほじくりながら、ああでもない、こうでもないと、ことばを動かす。
書けば書くほど、「ノイズ」のようなものがあふれてくる。ノイズが互いのノイズを聞きながら、ああ、うるさい、とまた好き勝手にノイズを発する。
でも、これが、私は詩だと思っている。
「意味」が次々に解体していって、ぶつかりあう。それは秋山が最初に書いた「黒い窓」へはつながらない。「黒い窓」の形を次々に破壊していく。「黒い窓」がどんなことを書いてあったか忘れたけれど、私は、「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズムで増殖していくことばの運動忘れない。
何が書いてあったか--それは、きっと忘れる。「黒い窓」と同様、「内容」は忘れてしまう。こういう、勝手気ままなことばの運動を許してくれることば--それが、私は大好きだ。
秋山基夫「黒い窓」は、まず「黒い窓」というタイトルの詩(?)があって、「「黒い窓」のための物語」、「参照文献及び若干のノート」という部分から構成されている。通俗的というか、「流通文学鑑賞」的に要約すれば、「物語」は秋山の体験した事実。「文献」は体験としての「物語」を濾過する装置。「物語」が「文献」によって整理、補強され、「黒い窓」という「詩」に昇華(?)する(される?)。
「詩」の部分は、私にはあまりおもしろくない。
こりゃあ烏賊にも蛸にも陳腐な物言いで、恐れ入り谷の、聖戦完遂の、非常時の、時節柄もわきまえず、鬼子母神も顔負けの容姿物腰、弩派手な色と柄の長い袖を振りながら、艶やかにおチャラチャラを開始したではないですか。
「烏賊にも蛸にも」というような、それこそ「陳腐」なことばが並んでいる。これは、Y氏(実は「吉田氏」と、「物語」で書かれている)が「チャラチャラチャラチャラ袖を振って」と言ったことばから、秋山が「妄想」を展開して広がった世界である。
--とは、「詩」と「物語」を総合的に読んで、私が判断したことであり、事実かどうかは知らない。
こういう説明的な「詩」と「物語」のつながりも、おもしろくない。
おもしろくない、おもしろくない、と書きながら感想を書いているのは……。
「文献」の部分がおもしろいからである。そして、そのおもしろさというのは、私の勝手な「妄想」を許してくれるからである。秋山がなぜその文献を引用しているかということは、ほとんど関係がない。
たとえば、先に引用した「聖戦」の部分と関係してくるのだと思うが、そこに高村光太郎の文章が引用されている。太平洋戦争中、詩の朗読がはやったらしい。そのことを高村は歓迎している。そして、秋山は、ていねいに高村光太郎の「説」を解説している。
高村はまず、①民族と詩とを一体と考えて、民族が動けば詩も動く、と考えている。そしていまみんそ句の精神が詩として発現しているのは、心強い、と言っている。次に、②詩の朗読によって、陶酔状態で詩と肉体的に合体するという。さらに、③「音響」によって詩は、淘汰し、洗練されるのだから、朗読の技法が大切である、といい、結論として、④この書をその指針にしなさい、という。
「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」という副詞(副詞節?)+番号という念の入った書き方が秋山のことばの特徴だけれど、いいよなあ、このことばの追い込み方。
というところから、秋山の「妄想」ではなく、私の「妄想」(ことばの暴走--あ、妄想と暴走は韻を踏んでいるね)がはじまる。
なぜ、私が秋山の詩がおもしろいかと感じるかというと、秋山の念押しの箇条書き、ていねいすぎる解説に、気持ちが半分(半分以上?)、秋山のことばから離れてしまい、秋山がていねいに書けば書くほど、なんというか、いいかげんに読んでも大丈夫、という気がしてくるからなのだ。私が「誤読」したって、また、そのうち、秋山は同じことを繰り返し書くに決まっている。だから、全部理解しなくていい、少しずつつまみ食いする感じで理解しておけば、なんとなく全体がわかるだろうと感じ、気楽に読めるからなのである。それは、変な言い方になるが、秋山の発することばへの「信頼」である。こんなふうに、ていねいにていねいに書く、ことばを動かすのが秋山である、という秋山への信頼と言い換えてもいい。
ね、ことばへの信頼というのは、結局、その人への信頼でもあるよね。その人が信頼できれば、何をいっていてもそれを信じてしまう。そういう安心感があって、私の妄想ははじまる。
で、私の妄想(ことばの暴走--誤読)というのは。
ことばというのは、やっぱり「書かれてしまう」から暴走するんだなあ。「書きことば」だから暴走するんだなあ、ということである。高村光太郎は「朗読」を推奨しているのだけれど、その推奨は「書かれている」。「書きことば」として、そこにある。それを読んで、秋山は、「妄想」(正しい想像、と秋山はいうだろうけれど)している。
秋山風に言えば、まず①高村のことばを書き写す。(引用する。)次に、②1文ずつ秋山のことばで書き直す。(解説する。)そして、③それに自分の感想を書きつらねる。(この部分は長くなるので引用しないが、私が引用した部分のあと、改行し、秋山は、あれこれと書いている。)
書き写し、書き直す--これは、高村のことばが「書かれている」(書きことば)だからである。これが、講演や対話のように「声」のことばだったら、こういうことができない。先行することばを、自分のことばのスピードで反復しなおす余裕がない。
あくまで、自分の「ことばの肉体」のスピードで反復しなおす。そこには「時間」の「差」というか、「ずれ」が生まれ、その「差」(ずれ)のなかへ、秋山自身のことばが入り込んで行く。「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズム、どこまでもどこまでも、読者が誤解しないようにと念をおしながら進む「ことば」の論理が侵入してくる。
秋山の「思想」は、その「正確」への念おしなのである。(秋山への信頼というのは、秋山は常に「正確」をめざす、ということへの信頼である。)
「詩」を書く。詩というものは、特に現代詩というものは、「難解」と決まっている。「難解」というのは、「誤読」のもとになる。「ことば」が正確につたわらないから、誤読されるのだ。だから、ほら、秋山は「詩」を、まず、①「物語」で解説する形で、そこに書かれていることを念おしする。次に、②「物語」でも書き切れなかったことを「文献」で補足し、さらに、③その「文献」に秋山自身の解説を書き加える。
そうやって、「正確に」「正確に」「正確に」、「詩」という「いま」を、「過去」で説明しようとする。「詩」があるのは、「これこれの過去」があるから。そして、その「過去」は、さらなる「過去」で「これこれ」という具合に説明できる。どのことばもきちんと「裏付け」をもっている。「裏付け」というのは「意味」である。だから、「誤解(誤読)」しないでね、と秋山はいうのである。
おかしいでしょ? 私は笑ってしまいますねえ。秋山を信頼できるといいながら「笑う」のはおかしいと思う人がいるかもしれないけれど、笑うというのは「安心」と同じことだからね。警戒していると、笑わない。信頼しているから、笑うことができる。
秋山が高村光太郎のことばを書き写し、それについての思いを書くなら、私だって、秋山のことばを書き写し、それについて感想を書く。読むというのは、けっして消えないことばを反芻することであり、書くというのは、けっして消えないことばを残すということである。そして、その行為は、「朗読」(聞く)と違って、自分ひとりで、自分のペースでおこなえることである。
そういうとき、人間というのは、自分の「過去」を(知っていることを)、どんどんほじくりながら、ああでもない、こうでもないと、ことばを動かす。
書けば書くほど、「ノイズ」のようなものがあふれてくる。ノイズが互いのノイズを聞きながら、ああ、うるさい、とまた好き勝手にノイズを発する。
でも、これが、私は詩だと思っている。
「意味」が次々に解体していって、ぶつかりあう。それは秋山が最初に書いた「黒い窓」へはつながらない。「黒い窓」の形を次々に破壊していく。「黒い窓」がどんなことを書いてあったか忘れたけれど、私は、「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズムで増殖していくことばの運動忘れない。
何が書いてあったか--それは、きっと忘れる。「黒い窓」と同様、「内容」は忘れてしまう。こういう、勝手気ままなことばの運動を許してくれることば--それが、私は大好きだ。
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