詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう『雲また雲』

2021-10-04 09:58:00 | 詩集

 

清岳こう『雲また雲』(思潮社、2021年10月1日発行)

 清岳こう『雲また雲』の「山」の冒頭。

また 山
天から駆けくだり
山 また 山は
はるかな谷底へとなだれ落ちる

 雄大な光景だ。私は、こういう世界を現実に見たことがない。映画や写真でなら見たことはあるが。
 何が雄大を引き起こしているのか。「天から」である。この「天」は「空」ではない。「空」を超越する絶対的な「場」だ。そこから「天」が「駆けくだる」。「天」のなかにある何かではなく、「天」そのものが「山」を生み出しながら「駆けくだる」。
 私は山といえば、大地が盛り上がって生まれるという意識しか持っていないが、ここで逆であるばかりではなく、「天」という、いわば何もないところから突然生まれてくる。この逆方向の動きがすごい。そういう運動があるということを想像したことがないので、「雄大」と感じるのだ。
 この「天」から生まれた山が「駆けくだる」動きは、さらに続いていく。「はるかな谷底へとなだれ落ちる」ということばは、「谷底」がどこかにあるというよりも、「なだれ落ちる」ことで「谷底」をつくりだしているという印象を引き起こす。「谷底」はないのだ。そこはもう一つの「天」なのだ。ただ「なだれ落ちる」という運動だけがある。「駆けくだる」山は「なだれ落ちる」とこで「谷」という名の「天」へと変貌していく。
 「山」は動かないものではなく、いつも「動いている」。
 さて、どうするか。

ここでは 誰もがうつむく
足元だけを見て歩く
罐詰のお粥 酸っぱい林檎を両肩に
言葉をしずめて歩く
頭をたれ人間界へもどる道を探す

 動かないものがあるとしたら、それは「足元」だけである。「足」だけである。「足」が「足元」をつくりだし、それを「肉体」の場とする。自分の「肉体」以外がつくりだす「運動」には目を向けない。それはことばにしない、ということである。「山は駆けくだり、なだれ落ちることで谷をつくる」とことばにすれば、そこから「人間(自分)」が消えてしまう。
 「足」がある。「足」を動かせば、そこが「足元」。そうやって「自然/非情」から「情(人間)」へもどる。自分を超えるものをことばにしないこと。それが「人間」にもどることだ。自分を超えるものをことばにすれば、それは「非情」になる。絶対的な世界になる。

うつむいて日をすごせば
ここにも花は咲いていて

はごろもぐさ
くもいなずな
せんにんそう

 「うつむく」は「足元」をつくりだすのと同じだ。まず自分のまわりだけを見つめる。こうした生き方は、いまでは「古くさい」か。しかし、生きるということに「古い/新しい」はないかもしれない。どこかで「足元」をみつめ、自分の「場」をつくらないといけないのだ。
 そのとき見つける「花」。これも、「古い」かもしれない。しかし、そこに何か、人間が昔からつづけてきた「いとなみ」を感じる。「はごろもぐさ/くもいなずな/せんにんそう」。羽衣、雲、仙人、と連想していいのかどうかわからないが、「足元」が「足元」ではなく「天」につながっていく「運動」を感じてしまう。おのずと「天」にかえていく「道」が生まれる。
 「天」と「足元」を往復しながら、人間は生きている。そういうことを「雄大な山」は思い出させてくれるきっかけとなった、ということか。
 この広くて狭い世界は「宇宙の底」では、こういう形で語られる。

こおろぎ鈴虫馬おい鉦たたきキリギリス
枕元までうねりよせうねりたつ命の炸裂

 「足元(人間の生きている場)」は「宇宙の底」であり、そこには虫も鳴いている。人間は共存している。
 この詩では「足元」ではなく「枕元」ということばが動いている。「枕元」は「頭元」でもある。「足」から「頭」まで、「頭」から「足」まで。どこにでも「元」はある。「手元」「目元」「耳元」。
 あ、清岳は「元」を生きているのだ、とふいに思うのだ。「元」。自分の「肉体」を出発点にして、常に「肉体」へ帰れる距離を保ちつづける。「雄大」な中国の自然、人情など気にしない厳しい自然、そしてそこで生きている清岳は違う人間。しかし人間であるかぎり、そこには「元」がある。その「元」にまで、清岳の「元」は近づいていく。
 そして、そこから「命」の「うねり」が始まる。「天」は「山」を生み、「谷底」を生む。人間は「うねり」ながら人を生む。暮らしを生む。

 

 


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